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三幸神社。熊谷市上中条の神社

三幸神社の概要

三幸神社は、熊谷市上中条にある神社です。三幸神社の創建年代は不詳ですが、永治年間(1141-1142)に熊谷直貞が大きな熊を退治した際に血が流れた地に当社を創建したと伝えられ、血形明神と称していたといいます。宝暦年間(1751-1764)より三幸神社境内で、千形相撲という草相撲が続けられていたといいます。

三幸神社
三幸神社の概要
社号 三幸神社
祭神 別雷命、大雷命、水分神
相殿 -
境内社 -
祭日 -
住所 熊谷市上中条1283
備考 -



三幸神社の由緒

三幸神社の創建年代は不詳ですが、女体神社のあった当地に、常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性院持ちの雷電神社の三社を合併して明治6年に設立したといいます。

新編武蔵風土記稿による三幸神社の由緒

(上中條村)雷電社
宝性院持(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による三幸神社の由緒

三幸神社(熊谷市上中条一二八三(上中条字女体))
上中条の地内は、差鍋堀という用水を境に二分されており、その北側は川北、南側は川南と呼ばれている。当社は川南の鎮守として、また上中条の総鎮守として、明治六年に常光寺持ちの千形・桜神社及び宝性院持ちの雷電神社の三社を合併し、更にそれを村のほぼ中央にあった女体神社の境内に移して設立された社である。
この合併についての経緯は、拝殿再建の棟札(明治六年)の裏面に詳しく記されている。それによれば、村社を定めるに当たり、村吏の計略によって当初は千形・桜神社が村社として登録された。しかし、当時復飾して神職を務めていた元宝性院の森左司馬らによって、千形・桜神社は川南だけの鎮守にすぎないのに対し、雷電神社は中条神社とも称し、上中条の総鎮守として崇敬されているため、雷電神社が村社になるべきであるとの訴えが官庁に対して度々なされた。この紛争を解決するために、太政官の提案に従って千形・桜・雷電の三社を合併し、その故をもって三幸神社と名づけたという。
一方『風土記稿』上中条村の項を見ると、時の鎮守は鹿那岐神社であり、同社は社領一三石を有するほどであった。ところが今では一廓(一集落)の鎮守として祀られる小祠に過ぎず、『郡村誌』でも、元からの鎮守は雷電神社と千形・桜神社で、『風土記稿』の記載は「当時の誤りならん」としている。これは、時の力関係によるものであろう。(「埼玉の神社」より)


三幸神社の周辺図




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