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川口神社。川口市金山町の神社、川口町鎮守、旧県社

川口神社の概要

川口神社は、川口市金山町にある神社です。川口神社は、平安時代の天慶年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請、「氷川社」としてしたと伝えられ、川口町の鎮守社となっていました。明治6年に村社に列格、明治27年天神社を合祀、明治42年に、旧川口町内に鎮座していた天神社、稲荷社(三宇)、金山社を合祀、川口神社と改称したといいます。

川口神社
川口神社の概要
社号 川口神社
祭神 素戔嗚尊、菅原道真公、宇迦之御魂命、保食命、金山彦命
相殿 -
境内社 金山社、梅ノ木天神社、八雲社、杉山稲荷社・第六天社・石神井社、金刀比羅宮、川口護国神社
祭日 大歳祭12月15日、例大祭10月19・20日、金山神社例大祭5月第2土曜日
住所 川口市金山町6-15
備考 -



川口神社の由緒

川口神社は、平安時代の天慶年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請、「氷川社」としてしたと伝えられ、川口町の鎮守社となっていました。明治6年に村社に列格、明治27年天神社を合祀、明治42年に、旧川口町内に鎮座していた天神社、稲荷社(三宇)、金山社を合祀、川口神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による川口神社の由緒

(川口町)
氷川社
村の鎮守なり。本地佛十一面観音を安ず。
末社。
天神社、天王社、諏訪社、稲荷社。
別当延命寺
新義真言宗、錫杖寺末なり。雨寶山大悲殿と号す。本尊地蔵を安ず。開山を良栄と云。元和4年の起立なり。

稲荷社四宇
一は錫杖寺持、一は西善院持、余は村民持なり。

第六天社
延命寺持
末社、稲荷社。

金山権現社、
鋳物師等が鎮守なり。神体は白狐に乗たる像を安ず。東明院持なり。
末社。
稲荷社。

石神井社
近き頃水災に流失して、今に再興ならず。西善院持(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による川口神社の由緒

川口の名は、当地の南を流れる入間川(現在の荒川)に合流する芝川の河口に当たることに由来するとされ、鎌倉・室町時代には「小河口」と称されていたことが『とはずがたり』『義経記』から知ることができる。また、当地は、日光御成街道の宿場として栄えたが、この道は時代をさかのぼると、中世は「鎌倉街道中道」、更に古代は東国と陸奥を結ぶ「奥大道」であり、古代からの重要な街道であった。
この小河口の成立は定かでないが、当地の善光寺の開山は、建久八年(一一九七)とされ、同寺には弘安元年(一二七八)を初めとする鎌倉・室町期の板碑が数多く残り、錫杖寺も中興を寛正元年(一四六〇)と伝える。また、度重なる荒川の水害により旧記亡失して詳らかでないが、当社にも暦応二年(一三三九)・天文四年(一五三五)の板碑が残ることから、このころには既に集落が存在していたようである。当社の創建も定かではないが、室町期の作と思われる一木造りの男神像を奉安することから、室町期には既に建立されていたと見られる。
社蔵の棟札は、貞享元年(一六八四)の本殿再建、元禄四年(一六九一)の修理、宝永七年(一七一〇) の社殿修理、天明八年(一七八八)の社殿大修理、嘉永三年(一八五〇)の本殿修理を伝える。
当社は、明治六年に村社となり、同二十七年六月に字新屋敷の天神社を合祀し、同三十五年四月に字町並の第六天社、字荒川堤外の石神井社を境内社として移転、同四十年七月に字押田・字金山・字谷中の各稲荷社を境内社の杉山稲荷神社に合祀した。また、同四十二年十月に、川口の鋳物師の鎮守であった字塚越の金山社を合祀すると共に、社号をそれまでの氷川社から川口神社に改称した。
その後は明治四十二年に本殿屋根葺替えがなされたが、大正十二年の関東大震災で神楽殿が全壊した。更にこれに伴う拝殿・幣殿・神楽殿・社務所の改築が進んでいた昭和二年、火災により本殿・拝殿・幣殿・末社を焼失した。こうした相次ぐ羅災にもかかわらず、昭和四年に拝殿・幣殿・神楽殿・社務所・杉山稲荷神社を竣工、同十年には県社に昇格、同十八年には紀元二千六百年記念事業として、本殿・神門・手水舎が完成し復興をみた。次いで同二十二年、合祀社の金山神社を独立の境内社とした。更には御大典奉祝記念事業として、平成三年五月に境内社の梅ノ木天神社を新築、同六年十一月には境内社の杉山稲荷神社・第六天社・石神井社を三社神社として新築、同じく境内社の八雲社と金刀比羅社を移築するなど、境内整備を行った。
当社の社務は、元和四年(一六一八)から明治初年まで、錫杖寺の末寺、雨宝山大悲院延命寺が別当として務めていた。また、別当が廃された後は、明治二年に竹本八五郎が社掌に拝命されてより、太郎吉・佳年・佳輝・佳徳と代々竹本家が宮司を務めている。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)

境内掲示による川口神社の由緒

川口神社は、社伝によると平安時代の天慶年間、武蔵国足立郡司武芝によって、武蔵一の宮大宮の氷川神社より分祀勧請したものと伝えられています。当社はもと、氷川大明神と称し、昔から領主や民の崇敬をあつめてきました。江戸時代には、産土神として西寶山大慈院延命寺を別当寺とし、また、名主宇田川家によって社殿の再建や修造がなされました。
明治42年2月26日、鋳物師の神として字塚越に祀られていた金山権現社を合祀して、「川口神社」となりました。11月19日は金山神社の祭礼で、当時「裸参り」や「寒参り」と称して、鋳物職人たちが器量の上達を願い、裸や素足で参拝しました。(境内掲示より)

境内掲示による境内社金山神社の由緒

金山神社は南北朝時代暦応年間の御鎮座と伝へ、江戸時代以降川口鋳物業の発展に伴ひ、鋳物師の守護神「金山権現」として篤い崇敬を受けてきた。当寺の祭日は十一月十九日で、祭も盛大を極めたと言ふ。
かつては当地の南西約三百米の地に鎮座してゐたが、政府の方針により明治四十二年、川口町内の他の神社とともに町の鎮守であった氷川社に合祀され、現在の川口神社となった。
昭和の大戦後は神社が国家の管理を離れたため、鋳物業関係者と氏子有志の熱望により、川口神社の旧社殿を移築して別宮とし、金山彦命の御分霊を奉祀したものである。
御祭神の神徳は広大で、国民生活に欠かせない金属の生産と流通、特にお金の流通をつかさどり、諸産業の発展と人々の幸福、社会の平和、国家の繁栄を守護される。(境内掲示より)

境内掲示による境内社梅ノ木天神社の由緒

往古川口町字新屋敷に天神社が鎮座してゐたが、明治二十七年に町の鎮守氷川神社に合祀され、現在の川口神社本殿に奉斎されてゐる。
昭和十一年川口第一尋常高等小学校(現・本町小学校)廿楽雪之丞校長より、児童の勧学の神として天神さまをまつりたい旨の要請を受け、道真公の御分霊を校庭の神殿に遷座して「梅ノ木天神社」と称した。然るに昭和二十年大東亜戦争敗戦に伴ふ敵占領軍の指令により、神殿ごと当神社に返還されたので、これを境内神社として奉安した。
本町三丁目の永井政一氏は、同校就学当時の神恩に奉謝すべく、天神社造替資金として蓄へた軍人恩給の提供を申し出られたため、これを原資に平成御大典奉祝記念事業の一環として新社殿を建設、平成四年五月二十七日夜遷座祭を斎行した。(境内掲示より)


川口神社所蔵の文化財

  • 川口神社の神鏡(川口市指定有形文化財)
  • 八雲社社殿

川口神社の神鏡

この和鏡は、享保18年(1733)に見沼の新田開発を担当した杉島貞七郎保英により工事成功の祈願が成就したため、川口神社(氷川大明神)に奉納されたものです。これは中村因幡守の作とされており、大きさは直径30㎝、厚さ0.5㎝です。
八代将軍吉宗に命じられた幕府の勘定役井沢弥惣兵衛為永は、紀州流の土木工法を用いて見沼溜井の新田開発に成功しました。そして享保16年(1731)、その産米を江戸に運ぶための見沼通船掘及び門扉を新設し、杉島貞七郎保英は為永の配下でその工事を担当しました。保英は川口宿の生まれで、産土神である氷川大明神に工事の成功を祈願したのです。(境内掲示より)

八雲社社殿

八雲社社殿は、かつては「金山権現社」の社殿として用いられていましたが、金山権現が明治42年(1909)に川口神社に合祀された後、大正元年(1912)頃に旧鎮座地(字塚越)に残されていた建物を川口神社境内に移し、スサノオノミコトを祀る八雲社社殿としました。一方金山権現社社殿は、昭和30年頃にかつての川口神社の社殿を利用して、現在に至っています。
八雲社社殿には棟札が残っていませんが、昭和8年(1933)に川口神社が提出した「神社昇格願」の中には、棟札に「奉造作宝永丁亥四歳 山城 宮野平左衛門 同名 平七郎勝俊」と書かれていたと記されていることから、江戸時代中期の宝永4年(1707)の建立と考えられます。
この社殿は、梁間は1.060m(4尺3寸)、桁行は1.240m(8尺)、前面と側面2尺に高欄付の縁を巡らした流造りで、前方に向拝を付、階を設けています。移築後間もなく、屋根は瓦葺からトタン葺に葺き替えられ、昭和10年(1935)、平成6年(1994)に大修理が行われました。創立当時の部材は、一部軸組と細部装飾に残されており、江戸初期の近世社寺建築における特徴をみることができます。(境内掲示より)


川口神社の周辺図


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