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鳩ヶ谷氷川神社。川口市鳩ヶ谷本町の神社、旧鳩ヶ谷宿の鎮守

鳩ヶ谷氷川神社の概要

鳩ヶ谷氷川神社は、川口市鳩ヶ谷本町にある氷川神社です。鳩ヶ谷氷川神社は、鳩ヶ谷宿・辻村・里村の鎮守で、応永元年(1394)に造営され、天文14年(1545)と天正13年(1585)に修復が行われたといいます。明治6年に村社に列格、明治40年以降大字浦寺字落合の村社箱崎社・大字辻字稲荷の村社稲荷社・大字里字屋敷添の村社日枝社・村社浅間神社など18社を合祀したといいます。

鳩ヶ谷氷川神社
鳩ヶ谷氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚命
相殿 -
境内社 稲荷社、古峯社、浅間社、三峰社、浅間社など
祭日 -
住所 川口市鳩ヶ谷本町1-6-2
備考 旧鳩ヶ谷宿の鎮守



鳩ヶ谷氷川神社の由緒

鳩ヶ谷氷川神社は、鳩ヶ谷宿・辻村・里村の鎮守で、応永元年(1394)に造営され、天文14年(1545)と天正13年(1585)に修復が行われたといいます。明治6年に村社に列格、明治40年以降大字浦寺字落合の村社箱崎社・大字辻字稲荷の村社稲荷社・大字里字屋敷添の村社日枝社・村社浅間神社など18社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による鳩ヶ谷氷川神社の由緒

(鳩ヶ谷宿)氷川社
當宿及び辻村里村等の鎮守なり、禰宜嶋田亀吉が預なり、亀吉は江戸根津権現の神職伊吹左京が配下なり。
末社。新明社、稲荷社三宇、天王社、疱瘡神社、三峯社、天神社、愛染堂。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による鳩ヶ谷氷川神社の由緒

氷川神社
鳩ヶ谷市本町1−6−2(鳩ヶ谷字的場)
鳩ヶ谷郷の初見は「吾妻鑑」寛元元年(一二四三)三月十二日条に「武蔵国足立郡鳩谷地頭職事」と見え、同郷地頭職をめぐる相論に敗訴した鳩谷兵衛尉重元が、鎌倉幕府の臨時評定に再審議を求めている。その郷域は現在の鳩ヶ谷市桜町・本町・坂下町・里の辺りと推定される。
当地は、鎌倉期からの奥州の街道である鎌倉街道中道筋に当たっており、戦国期の作成とされる「市場之祭文写」によれば「鳩谷之里」(鳩ヶ谷市里)に市が立っていたことがわかる。この街道は後に日光御成道となり、寛永十三年(一六三六)以後に当地はその宿駅に定められた。当社の鎮座地は、旧鳩ヶ谷宿の中心地で、御成街道からやや西に入った高台にある。
寛永六年(一六二九)六月に禰宜七右衛門から検地奉行所へ出された「社地山林見捨地下付願」によると、氷川大明神は鳩ヶ谷宿・里村・辻村の三か村の惣鎮守で、応永元年(一三九四)に造営され、天文十四年(一五四五)と天正十三年(一五八五)に修復が行われたという。また「玉露叢」によれば、慶長五年(一六〇〇)七月徳川家康が奥州出陣の途次、同社境内で休息したという故事により、以来東照宮御床机御跡として杉木は大切に見守られ、枝葉に至るまで伐ってはならないとされていた。宝永六年(一七〇九)には、神祇官吉田家から宗源宣旨により正一位に叙せられた。
「風土記稿」鳩ヶ谷宿の項には「氷川社 当宿及び辻村・里村等の鎮守なり、禰宜嶋田亀吉が預なり、亀吉は江戸根津権現の神職伊吹左京が配下なり、末社、神明社、稲荷社三宇、天王社、疱瘡神社、三峰社、天神社、愛染堂」と載せられている。これに見える嶋田氏は既に宝永六年に神祇管領吉田家から神道裁許状を受けている神主家で、江戸根津権現の配下については、宝永三年(一七〇六)にすぐ近くの上新田村(鳩ヶ谷市三ツ和)の一部が根津権現領になったこととの関連が考えられる。
「明細帳」によれば、明治六年に村社となり、同四十年に大字浦寺字落合の村社箱崎社・無格社氷川社、大字辻字稲荷の村社稲荷社、字永堀の無格社稲荷社、大字里字屋敷添の村社日枝社と同境内稲荷社、字堤外の無格社御嶽社、同年六月に大字鳩ヶ谷稲荷前の村社浅間神社、同年七月に大字里字曲田の無格社稲荷社、字堤外の無格社諏訪社、字屋敷添の無格社熊野社と同境内社天神社・稲荷社、大正元年に当社の境内社熊野社・住吉社・金比羅社・神明社・八坂社の計一八社を合祀した。その後、昭和十一年に拝殿を改築し、同五十三年には本殿と拝殿の屋根を葺き替えし、幣殿・神饌所・祭器庫を新築した。
社家である嶋田家は現宮司の嶋田精一で一五代を数える。(埼玉県神社庁「埼玉の神社より)


鳩ヶ谷氷川神社所蔵の文化財

  • 鳩ヶ谷絵図(川口市指定有形文化財)
  • 須賀神社神輿(川口市指定有形文化財)

鳩ヶ谷絵図

表題に「御宮地絵図」とある巻物で、市内最古の絵図です。日光御成道を中心に鳩ヶ谷宿の町割と用水、宿内の神社や寺院などが描かれています。
絵図の内容は、中央に日光御成道があり、江戸方向から小渕村と辻村、一方、岩槻方向には浦寺村までの範囲が描かれています。御成道の両側には、一軒ずつ屋敷地の間口と奥行きの寸法が、さらにその居住者名などの宿内の屋敷六十九軒分が細かく記録されています。また、御成道が渕江用水(現在の見沼代用水)を渡ったたもとから氷川神社へ至る参道、八郎兵衛(鳩ヶ谷宿本陣船戸家)を抜けて入る源性寺道、十右衛門(現在の竹屋畫間家)手前から入る横道などの様子も詳細に見られます。
製作年代については不詳ですが、絵図中にある「渕江用水」・「氷川大明神禰宜七右衛門」・「天神町中抱」・「熊野見捨地」の記載の他、屋敷地の人名や並び順などから、元禄十年(一六九七)に作製された「鳩ヶ谷町検地野帳」と合致するので、おそらくその頃に描かれたものと推定されます。(川口市教育委員会掲示より)

須賀神社神輿

この神輿には、「江戸時代後期に鳩ヶ谷宿の有志が、鳩ヶ谷宿本陣船戸家に承諾を得ずに購入したため、怒りを買い、宿内へ持ち込むことができなくなり、一時、里の法性寺に預けられていた。その後、嘉永五年(一八五二)に三田辰五郎という人物が、本陣に詫びを入れて許されたことから、宿内に運び込むころができた。」という伝承があります。
神輿は、一メートル四方の台輪と間口四十八センチメートルの神祠からなり、彫刻は全体に華やかで、彩色は漆塗りの上に金箔を貼り、台及び屋根は、黒漆で仕上げられています。神祠は、太い角柱で支えられ、その中には三田辰五郎の遺髪が納められていました。明治二十七年(一八九四)と昭和二十六年(一九五一)の二度の修繕を経てはいるものの基本的意匠は、江戸時代後期の特徴をよく残しています。
この神輿には、「百貫みこし」の俗称の他、七月の祭りには、荒々しく担ぎだされることから、「けんかみこし」といった異名も付けられています。(川口市教育委員会掲示より)


鳩ヶ谷氷川神社の周辺図


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