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青木氷川神社。川口市青木の神社、下青木村の鎮守

青木氷川神社の概要

青木氷川神社は、川口市青木にある氷川神社です。青木氷川神社の創建年代は不詳ですが、、応永年問(1394-1428)の創建と伝えられ、江戸時代には本山修験宗般若院が別当寺を務め、下青木村の鎮守社となっていたといい、明治6年村社に列格していました。般若院が足立不動尊の88番不動となっていたことから、境内には不動尊堂が残されています。

青木氷川神社
青木氷川神社の概要
社号 氷川神社
祭神 素盞嗚命、櫛稲田姫命
相殿 天照皇大神、倉稲魂命、手力乎命、保食命、大国主命、菅原道真公、惶根命、面足命、建御名方命
境内社 浅間神社、弁天社、磯前神社、天神社、三峰神社、稲荷神社、古峰神社、不動尊堂
祭日 例大祭10月19・20日
住所 川口市青木5-18-48
備考 下青木村の鎮守



青木氷川神社の由緒

青木氷川神社の創建年代は不詳ですが、応永年問(1394-1428)の創建と伝えられ、江戸時代には本山修験宗般若院が別当寺を務め、下青木村の鎮守社となっていたといいます。明治6年村社に列格、字間野の水戸社、字谷中の稲荷社、字宮前の神明社・稲荷社、字江川の稲荷社、字橋戸の稲荷社二社・石神井社・第六天社・神明社、字堤外の稲荷社三社、字堤根の神明社、字根の天神社、字寺前の稲荷社、字堤外の諏訪社、字根の天神社、字寺前の稲荷社、字堤外の諏訪社を合祀したといいます。

新編武蔵風土記稿による青木氷川神社の由緒

(下青木村)氷川社
村の鎮守なり。勧請年代は知らざれど、社頭に掛たる鰐口に依先之鰐口中絶求之也とあり。此慶安二年のものなれば、其以前造立の社なる事知るべし。
随身門。
石鳥居。
鐘楼。元禄十三年新造の鐘をかく。
末社。稲荷社、弁天社。
別当、般若院。
本山修験、中尾村玉林院配下。栗崎山薬師寺と号す。本尊不動を安ぜり。(新編武蔵風土記稿より)

埼玉県神社庁「埼玉の神社」による青木氷川神社の由緒

青木氷川神社
当社は見沼などの多くの沼の水を集めて流れる芝川の右岸に鎮座する。勧請年代は明らかではないが、見沼を神沼とする氷川神社(大宮市高鼻町鎮座)の祭祀圏の中にあり、現存する棟札などの造営史料から室町期には既に足立郡芝郷青木村の惣鎮守として広く諸人の崇敬を集めていたことがわかる。当社の由緒では、「市場之祭文写」(武州文書)の「武州足立郡青木市祭成之」の記事から「創建を応永年問(一三九四―一四二八)としている。
社蔵の棟札を基にして当社の造営を述べると次のようである。
室町期は、まず文明二年(一四七〇)十二月十五日に造営が行われ大檀那は源章家と章義、別当は永鎫、禰宜は彦四郎である。次いで、天文元年(一五三二)九月十五日には、大檀那の源泰義をはじめとする一族により造営が行われる。次いで、元亀二年(一五七一)十二月六日には、大檀那の助吉・助宗・同母・同千寿丸・同福寿・助光・同母、更に百姓中として約七〇戸の氏子の助力により造営が行われる。この時の遷宮導師は、当村の真言宗安楽寺了賢で、はかに了善・養善坊・浄真同女・良賢・普門坊・禰宜賢意源祐九郎・二郎・同女の名が見える。
江戸期は、慶長十二年(一六〇七)四月一日に、大檀那久田孫十・助兵衛・羽鳥四郎左衛門ほか郷中諸檀那四十余名により造営が行われる。別当は正覚院朝栄である。また、寛永四年(一六二七)十一月には、羽鳥三郎左衛門以下諸檀那により本殿と拝殿が建立される。別当は神力坊で、更に西方寺・竜泉寺・大覚院などが関与している、。次いで、寛文五年(一六六五)に名主羽鳥清左衛門以下氏子の助力により摂社門客人社が再建される。別当は正覚院である。更に宝永八年(一七一一)四月に幣殿・拝殿が建立される。この時の遷宮導師は中尾山王林院大先達賢宝法印が務め、別当は大円坊栄昭である。
宝暦十三年(一七六三)十一月、別当粟崎山般若院栄慶の代に鳥居が、寛政六年(一七九四)六月、般若院栄長の代に石鳥居がそれぞれ建立される。文政十三年(一八三〇)九月、般若院栄快と氏頭小用勘左エ門をほじめとする氏子により幟石枠が建立される。次いで、天保四年(一八三三)六月、随神門が再建される。
社蔵の幣帛筥の墨書によると、正徳六年(一七一六)四月七日に神祇管領青田兼敬より「正一位」が授与される。また、このことを記録した木札によれば、時の別当は正覚院栄昭で、この神位増進の本願は宮崎市右衛門をはじめとする二一各の庚申待講中と惣氏子中によって成就されている。
江戸期、正覚院・神力坊・大円坊・般若院などの修験が当社の祭祀を行っている。殊に、般若院は、ほかの三修験が次々退転している中で、江戸中期から当社の祭祀隆興に功を尽くしたばかりでなく、神社と氏子の紐帯に心を注いだ修験であると伝え、『風土記稿』には本山派修験で、粟崎山薬師寺と号し、中尾村玉林院配下と載る。ちなみに玉林院は室町期、下足立郡三十三郷の修験を統括する年行事職を岩槻城太田氏より安堵されているほか、江戸期も三一か寺の配下修験を有する修験であったが、明治七年に廃寺となっている。
明治期に入ると、長く当社の別当を務めてきた般若院は、神仏分離により復飾して鈴木と名乗り、新たに氷川社の社家として当社の祭祀を司ることになる。この時期、文化十三年(一八一六)に生まれた第三一代鈴木図書は、明治初年の変革期に社頭の護持に努め、更に、内科、外科医として医業を広め、剣術においても柳剛流を極めている。
『明細帳』によると、明治六年四月に村社となる。次いで、字間野の水戸社、字谷中の稲荷社、字宮前の神明社・稲荷社、字江川の稲荷社、字橋戸の稲荷社二社・石神井社・第六天社・神明社、字堤外の稲荷社三社、字堤根の神明社を合祀する。また、明治四十年七月には、字根の天神社、字寺前の稲荷社、字堤外の諏訪社を合祀している。
明治期の造営は、明治十四年十月、第三二代鈴木力宮司のもと、小用五郎左衛門・安藤与左衛門・海老原茂左衛門が本社営膳発願人となって、明治十七年十月に本殿を再建し、拝殿を建設している。しかし、拝殿は大正十二年九月一日の関東大震災により全壊したため、昭和二年に再建されている。
現在の社殿は昭和六十一年五月、第三六代鈴木邦房宮司のもと、氏子崇敬者の力を集め造営したもので、参集殿は平成六年十月に竣工している。(埼玉県神社庁「埼玉の神社」より)


青木氷川神社の周辺図


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