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埜田神社。川越市野田町の神社、旧村社

埜田神社の概要

埜田神社は、川越市野田町にある埜田神社です。埜田神社は、六つ塚という塚上に延徳元年(1489)鎮座、小手差稲荷、六塚稲荷と称していたといいます。明治5年村社に列格、明治40年に大字野田の日枝神社、翌年に大字野田新田の八幡神社を合祀の上当地へ移転、埜田神社と改称したといいます。

埜田神社
埜田神社の概要
社号 埜田神社
祭神 -
相殿 -
境内社 八坂社
祭日 -
住所 川越市野田町1-11-9
備考 旧村社



埜田神社の由緒

埜田神社は、六つ塚という塚上に延徳元年(1489)鎮座、小手差稲荷、六塚稲荷と称していたといいます。明治5年村社に列格、明治40年に大字野田の日枝神社、翌年に大字野田新田の八幡神社を合祀の上当地へ移転、埜田神社と改称したといいます。

新編武蔵風土記稿による埜田神社の由緒

(野田村)
稲荷社
小高き塚の上にあり、土人是を小手差稲荷と呼べり、其故は昔小手指原合戦の時、陣取となりし跡に立たる社なれば、其名をおひしなりと、されど別に證となすべきものなければ、附會の説なるも知べからず、塚あるをもてみれば、むかし討死などしたるものの墳ならんか、當社は仙波院の塔中にて、光善坊の持なりと云。
山王社
同邊なる小高き塚上にあり、よりて山王塚と呼ぶ、光善坊持
(野田新田)
八幡社
御茶湯塚と云る塚上に建つ、神體は馬上にて甲冑を帶せる木像なり、河越養壽院の持、御茶湯塚と呼べるゆへんは、神祖此邊御遊覧の時、この塚上に御休息ましませしをりから、塚下の寶林庵より御茶を奉るゆへに、かく號すと云。 (新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による埜田神社の由緒

埜田神社<川越市野田町一-一一-九(野田字𡋽上西)>
野田は川越市の市街地をやや離れた新河岸川に沿う低地にある。神社後方一〇〇メートルの辺りは崖となり、下は水田で古くは入間川の本流であった形跡がある。この崖下を六塚下といい、かつてこの付近にあった六つ塚という塚上に当社は鎮座していた。明治四一年合祀実施に伴い現社地に移転する。このため古老は当社を小手差稲荷のほか六塚稲荷とも呼ぶ。小手差稲荷については『風土記稿』に「稲荷社 故小高き塚の上にあり、土人是を小手差稲荷と呼べり、其は昔小手差原合戦の時、陣取となりし跡に立たる社なれば、其名をおひしなり」とある。
社記は、いずれの記録によるものか「当社の創建を延徳元年」とし、続いて「天文年間に当地の草分け田島家の先祖が当社を氏神と崇敬、慶安元年松平信綱が検地の際、先規に従い社地並びに御供料として神田を除地する」とある。この神田については、口碑に「神田一反五畝歩があったが、松平大和守により故あって取上げられた」とある。社蔵文書に「天明二年正宮御殿預攝津守荷田宿禰信邦 叙正一位写」がある。明治五年村社となり、同四〇年に大字野田の日枝神社、同四一年に大字野田新田の八幡神社を合祀し、社号を現行に改めた。
祀職は、幕政期本山派修験大乗院が別当を務め、神仏分離により復飾し榊原を名乗り神職となる。現在の一四代茂が奉仕している。(「埼玉の神社」より)


埜田神社の周辺図




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