仙波日枝神社。川越市小仙波町の神社

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仙波日枝神社。国指定重要文化財の本殿

仙波日枝神社の概要

仙波日枝神社は、川越市小仙波町にある日枝神社です。日枝神社は、天長7年(830)の無量寿寺(現、喜多院中院)創建時に、鎮守として勧請し創建されたと伝えられます。当地にはもと仙多宝塔古墳がありましたが、道路工事に伴い遷座しました。本殿は、16世紀後半から17世紀にかけてに建築されたと伝えられ、国重要文化財に指定されています。

仙波日枝神社
仙波日枝神社の概要
社号 日枝神社
祭神 大山咋神
境内社 -
相殿 -
住所 川越市小仙波町1-4-1
備考 -



仙波日枝神社の由緒

日枝神社は、天長7年(830)の無量寿寺(現、喜多院中院)創建時に、鎮守として勧請し創建されたと伝えられます。文明10年(1478)には、太田道灌が、当社から分祀して江戸紅葉山に山王日枝神社を勧請しています。当地は、もと仙多宝塔古墳がありましたが、道路工事に伴い遷座しました。本殿は、16世紀後半から17世紀にかけてに建築されたと伝えられ、国重要文化財に指定されています。

「埼玉の神社」による仙波日枝神社の由緒

日枝神社<川越市小仙波町一-四-一(小仙波字堀の内)>
当社は小仙波の町内、喜多院の山門前に鎮座する。小仙波は慶長一七年より喜多院領となり、当社も喜多院境内に含まれていた。
社の創立は天長七年(八三〇)円仁(慈覚大師)が喜多院無量寿寺を中興するに当たり、比叡山の日吉山王社を勧請したと伝えている。このため社頭の盛衰は喜多院と共にあった。
喜多院は天長七年再興の後、元久年中焼失したが永仁四年尊海により再興されたという。その後、天文六年の川越合戦により寺はことごとく灰燼に帰した。天正一六年同院の法統を継いだ天海は徳川家康に再興を上奏、堂塔を往時の姿に戻し東国における天台宗の本山とした。慶長一七年家康は寺に四八〇〇〇坪の境内と五百石の寺領を下し、この内当社には「正月初申山王開戸」の際二石の配当がなされていた。
寛永一五年一月川越大火により同院は焼失したといわれるが、当社がこの災いを受けたか否かについては不明である。
多くの堂舎の一つ当社は、三間社流造り、朱漆塗りの本殿で室町末期の技法を残す社殿として国指定重要文化財となっている。なお、拝殿は宝暦一四年慈門僧正の代の再建である。
喜多院が社務を執行していた折りには日吉山王社と号し、寺領小仙波村の鎮守としても村民から信仰され、神仏分離に際し小仙波村民が社の管理を行い、祭祀は神職に委ねられ、現在は八幡神社社家榊原家がこれに当たっている。
祭神は大山咋命である。本殿は三間社流れ造りで、その中央には古雅な厨子を安置している。この厨子は室町期の作で、社殿同様文化財指定を受けている。なお、厨子には日枝山王権現像が納められている。社殿の形式から三柱の神を祀ったものと思われるが、現在、ほかの二柱については伝わっていない。
本殿は、昭和三七年各所に腐朽が進み放置するのは困難となり、解体修理が行われ、以後氏子の当社に対する関心は高まっている。
長禄年中、太田道灌は当社を崇敬し、文明年中江戸城内に当社を勧請したと伝えられていたが、『日枝神社史』は「熊野米良文書」の貞治元年一月一七日武蔵国熊野御師願文に「武蔵圏豊嶋郡江戸郷山王宮」とあるのを載せ、喜多院山王社を江戸へ勧請したとする説を否定している。しかし、江戸氏は河越氏からの分かれである事からいつの時にか河越氏の氏神(山王社)を江戸郷に祀り、道灌が江戸城内北の曲輪に遷宮したものとも思われる。
当社の西方に白山社の小祠があるが、昔、歯痛の神として沢山の楊枝が上がっていた。歯痛の際、楊枝を借り、痛む歯を撫で治ればこれを二本にして返すというものである。『三芳野名勝図会』はこの地に初めて庵を結んだ仙芳仙人を祀るとしている。(「埼玉の神社」より)


仙波日枝神社所蔵の文化財

  • 仙波日枝神社本殿(国重要文化財)

仙波日枝神社の周辺図