川越八幡神社。川越市南通町の神社

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川越八幡神社。源頼信が創建、川越城の鎮守

川越八幡神社の概要

川越八幡神社は、川越市南通町にある八幡神社です。川越八幡神社は、長元元年(1028)に起った前上総介平忠常の乱を鎮圧するために下向した源頼信が当地に布陣、戦勝した源頼信が社殿を創建して祀ったといいます。武家の崇信厚く、太田道灌が川越城を築城してより川越城の鎮守として崇敬されたといいます。明治4年に村社に列格、明治41年には神饌幣帛料供進神社の指定を受けていました。

川越八幡神社
川越八幡神社の概要
社号 川越八幡神社
祭神 素盞嗚尊・寄稲田姫命・大己貴命・脚摩乳神・手摩乳神
相殿 -
境内社 三峰、民部稲荷、菅原、八幡、稲荷四
祭日 -
住所 川越市南通町19-3
備考 旧村社



川越八幡神社の由緒

川越八幡神社は、長元元年(1028)に起った前上総介平忠常の乱を鎮圧するために下向した源頼信が当地に布陣、戦勝した源頼信が社殿を創建して祀ったといいます。武家の崇信厚く、太田道灌が川越城を築城してより川越城の鎮守として崇敬されたといいます。明治4年に村社に列格、明治41年には神饌幣帛料供進神社の指定を受けていました。

新編武蔵風土記稿による川越八幡神社の由緒

(脇田村)八幡社
八幡新田の鎮守なり
本地堂。神楽堂。
末社。稲荷社、天神辨天合社。
別當萬蔵寺
天台宗、城内高松院末、八正山無量院と號す、本尊彌陀の立像長三尺許恵心僧都の作なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による川越八幡神社の由緒

川越八幡神社<川越市南通町一九-一(脇田字西町)>
承平八年(九三八)武蔵介として源経基が坂東の地に着任しているが、これが、後に源頼朝が鎌倉に幕府を開くまでに至る清和源氏と関東との関係の始まりである。経基は、現在の鴻巣市付近に居館を構え、足立郡司武蔵武芝、武蔵権守興世王、それに平将門らと相対していた。結局、経基は、天慶の乱では戦に加わることなく、乱が鎮圧され、その数年後に経基の子満仲(多田満仲)が、武蔵守に任じられ、源氏と武蔵の関係は一層深まっていった。
やがて満仲の子頼信の代に至って、武蔵国の実質的な勢力を得た。当社の創建も源頼信によると社記に伝えている。
長元元年(一〇二八)、下総國千葉城の城主であった前上総介平忠常の謀反が勃発した。忠常が、安房・上総・下総の三国を勢力下に置き、同三年武蔵国に侵入を始めると、当時冷泉院判官甲斐守であった源頼信に、忠常追悼の綸旨が下った。頼信は、現在の当社社地まで陣を進め、決戦を前に、源氏の氏神であり、武神である八幡社に必勝を祈願し、陣容も勇壮に忠常の軍へ斬り込み、退く敵軍に三日三晩に渡って追撃を加え、ついに朝敵を撲滅した。八幡神誉田別尊の神威を深く感得した頼信は、直ちに社殿を創建し奉った。
創建当時、当社の付近一円は、豪族河越氏の領地であった。当社の広報には、鎌倉期の同氏の居館が置かれ、同氏の崇敬厚きものがあったと推考される。
次いで正平二二年に当地は、足利氏の領するところとなり、応永三二年、関東管領足利持氏河越兵庫助の館跡の半分を日供料として寄進を受けた。
下って、長禄元年、河越城を築いた太田道灌は、当社を武運の神と崇め、築城成った城内に、当社の分霊社を祀り、城の守護神とした。
以来、川越城歴代の城主から深く信仰され、同時に家臣からも厚い崇敬を受けた。
殊に天正一八年以来、酒井氏の崇敬はすこぶる厚く、城主在任中は社殿の造営・神田・神宝等の寄進が相次いだことが伝えられており、寛政一一年国替によって川越を離れてからも、しばしば、改築費等が寄せられたという。
当社の神宝の一つである向鳩神号一軸は、文化九年姫路城主酒井忠直の奉納であり、『明細帳』は、同時に鳥居扁額も奉納されたが後年焼失したと述べている。現在のものは、掛け軸の文字を写して復元されたものである。また、同じく神宝の一つである葵紋付祭器具は、寛永二年、三代将軍徳川家光の日光社参の際、川越城主酒井備後守忠利が当社に道中安泰を祈願し、その功によって寄進を受けたものである。
明治になり、神仏が分離されるまで、当社は天台宗八正山無量院万蔵寺が別当を務めていた。万蔵寺の記録では、元禄一一年には既に住職が一七世であることから、開山は鎌倉期と推定される。万蔵寺は初め仙波中院の末寺であったが、後に喜多院の末寺となり、更に川越城内高松院の配下となり、明治初年に廃寺となった。
(中略)
当社は明治四年に村社となり、同四一年には神饌幣帛料供進神社の指定を受けた。また、戦後、荒廃した人心に神威を宣揚し、施設・運営共にほかの神社の模範と認められ、昭和五一年県内で唯一社”神社本庁第一次神社振興対策モデル神社”に指定を受けている。(「埼玉の神社」より)


川越八幡神社の周辺図