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古尾谷八幡神社。川越市古谷本郷の神社、旧県社

古尾谷八幡神社の概要

古尾谷八幡神社は、川越市古谷本郷にある八幡神社です。古尾谷八幡神社は、慈覚大師が天長年間に巡錫した際灌頂院を創建、再訪の際に石清水八幡宮の分霊を祀り、貞観4年(863)当社を創建したといいます。源頼朝や、当地領主古尾谷氏など武家の崇敬を集め、天正19年(1591)には社領50石の御朱印状を拝領、古尾谷庄の総鎮守だったといいます。明治4年郷社に列格、大正4年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社を合祀、正和4年県社に列格したといいます。

古尾谷八幡神社
古尾谷八幡神社の概要
社号 八幡神社
祭神 品陀和気命・息長帯姫命・比売神
相殿 -
境内社 稲荷神社
祭日 -
住所 川越市古谷本郷1408
備考 旧県社



古尾谷八幡神社の由緒

古尾谷八幡神社は、慈覚大師が天長年間に巡錫した際灌頂院を創建、再訪の際に石清水八幡宮の分霊を祀り、貞観4年(863)当社を創建したといいます。源頼朝や、当地領主古尾谷氏など武家の崇敬を集め、天正19年には社領50石の御朱印状を拝領、古尾谷庄の総鎮守だったといいます。明治4年郷社に列格、大正4年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社を合祀、正和4年県社に列格したといいます。

新編武蔵風土記稿による古尾谷八幡神社の由緒

(古谷本郷)八幡社
天正十九年社領五十石の御朱印を別當灌頂院に蔵せり、古尾谷庄に屬せる本郷上村・久下戸・今泉・木野目・並木・大中居・小中居・高嶋・八ツ嶋・大久保・古市場・澁井十三村の惣鎮守なり、拝殿幣殿内陣皆銅瓦をもて作れり、神體は坐像束帶にして笏を持せり、本地佛は銕盤内に三尊の彌陀を鋳出せり、其さまいと古色なり、當社は元暦元年源頼朝勧請し玉へるよし、別當灌頂院に蔵せる元文の頃當院學頭眞純が書ける記録に、五十六代清和天皇貞観四年に八幡宇佐より移男山及至同朝に八幡與諏訪明神勧請武州古尾谷寛永十九壬午迄七百九十一年永禄六年に氏政氏康父子出馬此時大宮七社同古尾谷佐々目の兩八幡並水判土の堂を焼右八幡社頭勧請及焼失之略者依廣海記録中令筆記者者也とあり、もとより取べきことのみに非ざれども姑く其儘を記せり、さはあれ天正十九年の御朱印に寄進八幡宮武蔵國入間郡古尾谷内五十石如先規令寄附訖云々とあれば、先代より附せし地もありていと舊き鎮座なることはしるべし。
神寳
太刀一腰。中筑後守が所持の品なりといへば、この人の歿後にここへ納めしものなるべし、兼光の銘あり、真鍮をもてすべてのつくりをなせり、其さま天正年間の物ならんか、今は金具も大に破損し、古の形を失へり。
短刀。銘は兼景たり。
蚫貝。貝の中に天照太神の文字見ゆ、當社の寳物とす、傳を詳にせず。
楼門。爰に鐘をかく、正保年間の銘文にて少しく事歴にわたりたれば姑く左にのす(銘文省略)
末社。
辨天社、天満宮社、天照太神宮、春日、住吉、加茂、熊野、諏訪、鹿島、愛宕、稲荷、辨天、富士、第六天、天満宮、氷川、三島、伊豆権現、箱根、山王若宮、摩多羅神、新脛明神等二十一社合殿。其外東照宮をも御合殿として中に安じ奉。
太神宮
山王社
三峯社
元宮八幡宮
社家。押田多門。(新編武蔵風土記稿より)

「埼玉の神社」による古尾谷八幡神社の由緒

古尾谷八幡神社<川越市古谷本郷一四〇(古谷本郷字八幡脇)>
当社は古尾谷荘一三カ村の総鎮守として古くから武将たちに崇敬されてきた。古尾谷荘は鎌倉期に京都の石清水八幡宮の荘園とされたが、これは源氏の八幡信仰と深くかかわり、開発は在地領主である古尾谷氏であると思われる。古尾谷氏については、鎌倉幕府の御家人として登場し、吾妻鏡には承久の乱の折宇治川の合戦で活躍している。また、この後も古尾谷氏は当地の領主を務め、中世当社の盛衰はこの古尾谷氏とともにあった。
社記によれば、天長年間慈覚大師が当地に巡錫し灌頂院を興し、貞観年中再び訪れて神霊を感じ、石清水八幡宮の分霊を祀ったのに始まると伝え、祭神は、品陀和気命・息長帯姫命・比売神である。
元暦元年に源頼朝は天慶の乱により荒廃した社域を見て、当社の旧記を尋ね、由緒ある社であるので崇敬すべしとして、祭田を復旧して絶えた祭祀の復興を計り、また、文治五年には奥羽征討のため陣中祈願を行い、鎮定後、社殿を造営する。次いで弘安元年、藤原時景は社殿を再営、梵鐘を鋳造して社頭に掛けた。
正平七年に古尾谷形部大輔は新田義宗、義興らが上野国で挙兵し鎌倉に攻め上るに当たり、参陣して当社に戦勝を祈り、佩刀を解いて「若し利あらば太刀をして川上に登らしめよ」と誓い、太刀を荒川に投ずると不思議にも川上に太刀が上がった。このため、兵の士気は大いに挙がり大勝した。よってこの太刀を“瀬登の太刀”と名付け長男信秀に奉献させた。
下って永禄四年に越後の勇将長尾景虎が、小田原城を攻略する際、古尾谷氏の主であった岩槻城主太田資正が先鋒を務めたため、当社及び灌頂院は小田原方に焼き討ちされた。その後、太田氏の内紛により資正は嫡子氏資に追われ、家臣であった古尾谷氏も逼塞した。新たに小田原方についた太田氏資は、古尾谷氏の旧臣中筑後守資信に当地を任せ、天正五年二月資信は当社を再建した。
次いで天正一八年豊臣秀吉は後北条氏を降伏させ、徳川家康が関東に入府となり、翌年当社は五十石の社領を安堵される。
天保四年、今泉西蔵院良賢は、兵火により焼失した古鏡を改鋳し再びこれを神前に掛ける。また、元禄一一年には当社に東叡山寛永寺門主公弁法親王の命により、真如院梨隠宗順が菊紋の高張・張幕・海雀・鮑売の四品を献上する。享保七年、長く風雨にさらされ傷んだ本社及び摂末社は再建された。これが現在の社殿である。
明治初めの神仏分離により当社は別当天台宗灌頂院から離れ、明治四年には川越県第五区の郷社、同五年には入間県の郷社となり、昭和四年には県社に昇格した。
大正四年に字氷川前の氷川神社と同境内社の八坂社が合祀された。(「埼玉の神社」より)


古尾谷八幡神社所蔵の文化財

  • ほろ祭り(埼玉県指定文化財)
  • 懸仏(埼玉県指定文化財)
  • 旧本殿(現末社)(埼玉県指定文化財)
  • 本殿・幣殿・拝殿(埼玉県指定文化財)
  • 算額(川越市指定文化財)
  • 絵馬馬図(川越市指定文化財)
  • 絵馬三国志図(川越市指定文化財)
  • 絵馬鷹木彫(川越市指定文化財)

古尾谷八幡神社の周辺図




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