軍太利神社。飯能市大河原の神社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

軍太利神社。当村の領主大河原四郎が勧請

軍太利神社の概要

軍太利神社は、建仁年間(1201-1203)当村の領主大河原四郎が勧請したと伝えられます。明治5年村社に列格、明治40年近隣の稲荷神社3社・神明神社2社・愛宕神社3社・白山神社・阿松神社・八坂神社・軍太利神社を合祀しています。

軍太利神社
軍太利神社の概要
社号 軍太利神社
祭神 加具土命、大日霊貴命外7柱の命
相殿 -
境内社 稲荷神社・神明神社・愛宕神社・白山神社・阿松神社・八坂神社
祭日 夏祭:7月中旬の土・日曜日
住所 飯能市大河原595
備考 大河原村鎮守、村社



軍太利神社の由緒

軍太利神社は、建仁年間(1201-1203)当村の領主大河原四郎が勧請したと伝えられます。明治5年村社に列格、明治40年近隣の稲荷神社3社・神明神社2社・愛宕神社3社・白山神社・阿松神社・八坂神社・軍太利神社を合祀しています。

新編武蔵風土記稿による軍太利神社の由緒

(大河原村)軍茶利社
村中の鎮守なり。例祭9月29日、村民の持なり。(新編武蔵風土記稿より)

飯能市史資料編による軍太利神社の由緒

創建年月日は、はっきりしないが明細帳が記す口碑によれば、建仁年間(1201-1203)当村の領主大河原四郎の勧請という。大河原地区には今も尚、殿屋敷・篝場・馬場・鎌倉坂等の地名がある。
天和2年(1682)全焼して再営、明治5年村社に列し、同40年5月に次の12社を合祀した。
稲荷神社(3社)・神明神社(2社)・愛宕神社(3社)・白山神社・阿松神社・八坂神社・軍太利神社(飯能市史資料編より)

「埼玉の神社」による軍太利神社の由緒

軍太利神社<飯能市大河原五九五(大河原字屋代平)>
名栗川の南岸にある当地は、二つの山の狭間にあり、すぐ後ろには竜涯山が控え前方には多峯主山が望める。『風土記稿』によると古くはここは軍荼ケ根村と呼ばれ、これは「軍荼利神社」を祀るために付けられたものかと記されている。また、軍太利神社は当地のほかに青梅市成木(註:現安楽寺軍太利明王堂)にもあり、そこの樹齢八百年余りの大銀杏は当社から飛んだ種が成長したものであるといわれ、当社の古さを物語っている。
社記によると、当社の勧請は土豪の大河原四郎の手により行われ、武門の守護神として末社摩利支天社とともに祀られる。大河原氏はこの地の殿屋敷と呼ばれる所に居住し、当社南方の竜涯山に砦を築き戦いに備え、殿屋敷・篝場・売堀・馬場などの地名が『明細帳』の記載に見える。また、近くの真言宗金蔵寺八耳堂(太子堂)も大河原氏が厚く信仰していたと伝えている。
天和二年、当社は火災に遭い、社殿及び古記録をすべて焼失した。
明治五年、当社は長く当地の鎮守であったことから村社となり、同四〇年には字小山平の稲荷社、字前谷の稲荷社、字中里平の稲荷社・愛宕社・軍太利社、字葭ケ入の愛宕社・阿松神社、字金穴の愛宕社、字中平の神明社、字屋代平の神明社、字森の白山社、字竹ケ窪の八坂社を合祀した。(「埼玉の神社」より)

埼玉県掲示による軍太利神社の由緒

八耳堂は、真言宗の寺金軸山無量院金蔵寺の仏堂で、太子堂とも呼ばれている。
本尊は、聖徳太子(厩戸皇子)を祀り、保元年間(1156-1158)に建立されたといわれているが、現在の建物は文政3年(1802)に再建したもものである。
この奥手に軍茶利神社があり、鎌倉時代の建仁2年(1202)飯能地方の武士・大河原四郎が創建したと伝えている。
大河原氏は、この地方の殿屋敷と呼ばれる場所に居住し、当社の南方に位置する龍涯山に砦を造って非常に備えると共に、金蔵寺とこの神社を篤く信仰したという。神社は、天和2年(1682)火災にあったが、のちに再建された。(埼玉県掲示より)


軍太利神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)