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加治神社。飯能市中山の神社

加治神社の概要

加治神社は飯能市中山にある神社です。加治神社は、慶長元年(1596)武蔵七党の中の中山勘解由丹冶家範の老臣本橋貞潔が聖天社として勧請、明治初めに加治神社と改称しました。江戸期には中山村鎮守、明治5年には村社に列格しています。聖天社境内には、天満宮があり、天神様、天満様とも称されていました。この天満宮は、中山備前守が勧請し、社領5石の朱印状を拝領した丹生神社などを明治40年合祀しています。

加治神社
加治神社の概要
社号 加治神社
祭神 高御産巣日命、神御産巣日命、菅原道真
相殿 -
境内社 番神社、八坂神社、三峯神社
祭日 例祭日9月29日、天神様開帳33年毎
住所 飯能市中山716
備考 -



加治神社の由緒

加治神社は、慶長元年(1596)武蔵七党の中の中山勘解由丹冶家範の老臣本橋貞潔が聖天社として勧請、明治初めに加治神社と改称したといいます。江戸期には中山村鎮守、明治5年には村社に列格しています。聖天社境内には、天満宮があり、天神様、天満様とも称されていました。この天満宮は、中山備前守が勧請し、社領5石の朱印状を拝領した丹生神社などを明治40年合祀しています。

新編武蔵風土記稿による加治神社の由緒

聖天社。
当村の鎮守なり。当山修験、陽雲寺持。
丹生社。智観寺の境内より東の方にあり。中山備前守が鎮守なり。社領5石、社は御朱印地の内にあり。神体は石像なりと云。神秘のよしにて開扉せず。例祭2月16日別当は智観寺、神職は飯能村の小能志摩なり。縁起の略を左にのせり。人皇29代宣化天皇の御子、右大臣家範、継体天皇の御宇、始て丹冶の宿禰を賜ふ。其苗裔宮内太郎家義領紀州如先時、嚮導弘法始開高野山以丹生明神為鎮守矣、是弘仁年中也。其後陽成院元慶年中、家義之孫武信流落而赴関東秩父郡、并一ノ井加治等自領之、於是丹生明神勧請、於高麗郡中山郷云々。又彼子孫市正信正が再造の時水戸儒生人見道生の文あり(中略)
白髭社、 智観寺の持。
弁財天社、同上。
神明社二宇、一は智観寺持、一は陽雲寺持。
稲荷社四宇、一は智観寺持、余は陽雲寺持。
白山社二宇、一は智観寺持、一は陽雲寺持。
牛頭天王社、陽雲寺持。
天満社、智観寺持。
天満宮、真福寺持。縁起に云、天文20年川越夜軍の時、中山勘解由家勝当所より出陣せしに、敗軍して其夜中山へ帰らんとせし時、入間川満水にて渉りかね、殊に艱難の折からいづくとも知らず独の老人、葦毛の馬を牽来て家勝を扶け乗せ中山に帰る。家勝その姓名を問ふに、我は吾妻天神なりと云て、人馬ともに社のほとりに所在を失ふ。是よりして導の天神とも称すと云、此故を以て今も中山が子孫と、当村の民家にては、葦毛の馬を飼養せずと云。川越夜軍は天文15年なるを20年と云は、縁起の年代をあやまれり。 (新編武蔵風土記稿より)

飯能市史資料編による加治神社の由緒

創建年月日は、はっきりしないが、明細帳によれば慶長元年(1596)武蔵七党の中の中山勘解由丹冶家範の老臣本橋貞潔が主君の遺命を奉じて勧請したものという。
明治5年8月村社に列した。同40年5月17日「大字中山字下町村社加治神社、同境内八坂神社、同稲荷神社、字上町無格社丹生神社、同境内社稲荷神社、同三峯神社、字同無格社白山神社、字萩原無格社水種稲荷神社を当所無格社天神社へ合祀の上、社号を更めて、村社加治神社と称す」と記す。(飯能市史資料編より)

「埼玉の神社」による加治神社の由緒

加治神社<飯能市中山七一六(中山字吾妻台)>
当社は明治四〇年、丹党中山氏縁の天神社に、他の同氏崇敬の社を合祀し、そのうちの村社の名を取り、加治神社と改称した。
当地は、武蔵丹党の祖、丹治武信が元慶年中武蔵国に下向し、館を構えた所で、丹治家季の次男助季は地名の中山を名乗り、丹党中山氏の祖となった。天文一五年河越夜戦に敗れた中山家勝は、帰途、入間川の増水に遭い渡りかねていたところ何処ともなく一人の老人が蘆毛の馬を曳いて現れ、家勝を対岸に渡し、中山に導いた。家勝が名を問うと、「我は鎮守十二社の吾妻天神なり」と答え姿を消した。これにより家勝は“導の天神”と崇め、館の北、勘解由山に祀られていた天神社を現社地裏に当たる御伊勢山へ遷座したという。また、中山ではこれより蘆毛の馬は神馬だとして飼わないという。
丹党と天神社との関係は、天慶五年に多治比文子に菅公の神託があったことが『北野天神縁起』に見え、多治比の血を引く中山氏とのかかわりが推測される。
当社に合祀した加治神社は往時聖天社と称し、家勝の嫡子家範の遺命に依り家臣中山四天王本橋備後守新左衛門■貞が歓喜天を祀り一社となすと伝え、明治の神仏分離により歓喜天を高皇産霊尊、神皇産霊尊に変え、加治神社と改称し村社となった。社は参道入口脇に鎮座していたが、合祀の際に社殿を天神社境内に引き上げ拝殿とした。
同じく合祀社丹生神社は、丹治武信が氏神であった紀州の丹生都比賣神社を元慶年中に勧請し、中山氏の氏神として祀り、中山氏は江戸に館を移した後も毎年二月一六日には訪れて祭りを行い智観寺が護摩札を江戸中山家へ届けた記録が残る。『風土記稿』に「智観寺の境内より東の方にあり、中山備前が鎮守なり、社領五石は御朱印の内にあり、神体は石像なりと云、神秘のよしにて開扉せず」とある。現在、丹生都比賣神社の御砂を封じた神璽筥を祀る。
また、合祀した末社では、愛宕神社は元の丹生神社の裏手、勘解由山の中腹にあり、館の守護神、勝軍地蔵を祀ったが、神仏分離で、勝軍地蔵は智観寺に移した。字荻原の境外末社水種稲荷神社は武信が元慶年中洛北より倉稲魂尊を奉斎し武運長久出世開運領土福徳の祈願所とした。
このほか地内に三十番社・薬師堂があり、先の天神社・水種稲荷社を合わせて館の四方固めとして祀り、中山氏の厚い信仰を受けていた。(「埼玉の神社」より)

飯能市教育委員会掲示による加治神社の由緒

中山氏と加治神社
伝承によると中山信吉の祖父にあたる中山家勝は上杉氏の家来として、北条氏との河越夜戦に敗れ中山に戻るとき、入間川の洪水に阻まれる。その時葦毛の馬を連れた老人に救われ、中山にたどり着く。老人は「吾は吾妻天神なり」と言い残し馬とともに、天神様の前で姿を消したという。
加治神社は、明治の初め、聖天社が改称された名称だと考えられる。その後、この伝承の残る天神様(天満宮)は、加治神社と合祀される。
加治神社の現在の本殿は、明治40年頃智観寺の北にあった丹生神社が合祀されたときに移築されたものである。参道には寛永19年の石燈籠が六基並んでいる。中山信吉の嗣子中山信正が丹生神社中興にあたり寄進したもので、本殿とともに移転された。信正は丹生神社の祭礼にも力を注ぎ、中山村の隆盛に力を注いだ。
加治神社は、中山氏の足跡を残していると同時に一時は中山町と称されていた中山村繁栄の一端を示している。(飯能市教育委員会掲示より)


加治神社所蔵の文化財

  • 加治神社寛永19年石燈籠

加治神社寛永19年石燈籠

この石灯麓は、もと智観寺境内の丹生明神社にあったが、明治の中頃、丹生明神社が加治神社に合祀されたとき社殿とともに現在地に移された。神社の階段南側に二対、段上に一対の計六基が献納されている。いずれも高さ175cmの花崗岩でつくられ、竿の表面には献納者等等を印した陰刻がある。
献納者中山信正は中心信吉の嫡子であり、父のあとを継ぎ水戸家徳川光国に仕えて家老職に就いた。信正は智観寺や丹生明神社を中興し、中山宿に市をたてるなどして江戸初期の中山村は大いに繁盛し、丹生明神社の祭礼は大そう賑わいを見せたという。(飯能市教育委員会掲示より)


加治神社の周辺図

参考資料
  • 新編武蔵風土記稿
  • 飯能市史資料編
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)



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花園むさしの浄苑