諏訪八幡神社。飯能市飯能の神社、旧村社

猫の足あとによる埼玉県寺社案内

諏訪八幡神社。加治菊房丸等が勧請、武蔵野七福神

諏訪八幡神社の概要

諏訪八幡神社は永正13年(1516)初春11日に、加治菊房丸等の勧請により創建、天正12年(1584)7月に加治勘解由左衛門家範が再建、恵比寿大神を勧請したと伝えられます。境内の恵比寿大神は、武蔵野七福神の恵比寿神です。

諏訪八幡神社
諏訪八幡神社の概要
社号 諏訪八幡神社
祭神 武御名方命、誉田別命、豊受姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、白山姫命、木花咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、大日霊貴命、金山彦命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命
相殿 -
境内社 丹生大明神、恵比寿大神、愛宕神社、山祇神社、御嶽神社、荒神神社、琴平神社、白山神社
祭日 例祭日9月27日、春祭4月27日、秋祭11月27日
住所 飯能市飯能263
備考 武蔵野七福神の恵比寿神



諏訪八幡神社の由緒

諏訪八幡神社は永正13年(1516)初春11日に、加治菊房丸等の勧請により創建、天正12年(1584)7月に加治勘解由左衛門家範が再建、恵比寿大神を勧請したと伝えられます。

新編武蔵風土記稿による諏訪八幡神社の由緒

諏訪明神社
祭神建御名方命にて、合殿に八幡を祀れり。社傳詳ならず。唯棟札二札の写あるのみ。其文に曰、大檀那加治菊房丸助、願檀那平重清、同菊房丸祖母昌忠、永正13丙子初春11日。又其一に曰、諏訪宮再興之事、本願智観寺住僧法印慶賢、大檀那加治勘解由左衛門吉範、当所諸檀那代官小室三右衛門成就坊、于時天正12年7月吉日とあり。成就坊は今の別当大泉寺なり。此寺享保9年回祿の災に罹りし時、棟札も亦灰塵に委す。仍て今写のみを存す。社地は僅の除地なり。例祭は7月27日。
神明社、神職小能志摩吉田家の配下なり。
同社、村持。
山王社、同上。
稲荷社、同上。
三社権現社、同上。
愛宕社、小能志摩観音寺、大泉寺持。
同二社、共に同じ。
聖天社、神職小能志摩吉田家の配下にて、社の南の方に在り。(新編武蔵風土記稿より)

飯能市史資料編による諏訪八幡神社の由緒

創建年月日は、はっきりしない。
新風記によると永正13年(1516)初春11日に、加治菊房丸などの勧請したものであると、その棟札の写しによって書かれている。加治氏は小田原の北条伊勢氏の配下で、食邑数村を合わせて加治領と号していた。
その後天正12年(1584)7月に加治勘解由左衛門家範が再建したという。(飯能市史資料編より)

境内掲示による恵比寿大神の由緒

今から約400年の昔武州高麗郡中山村(現飯能市中山町)に平安の末期より代々館を構えていた中山家14代の当主勘解由家範は或る夜丑満(うしみつ夜中1時頃)の刻仏壇に祀られた本尊大日如来の枕辺に立たせ賜って「汝の館今安泰と雖も未申(ひつじさる)の方向(西南方)に不吉の兆しあり。恵比寿大神を勧請して守護神となし是を信ずる時は諸災は排除されて家運は開け後世に名を残し子宝に恵まれる事間違いなし夢々疑う事なかれ」とさわやかなる御声に目を醒ましました。家範は直ちに館の裏鬼門に守護神として祀ってある飯能村の諏訪八幡神社の境内に恵比寿大神の御尊像を安置し深く信仰しました処元亀元年長男照守、天正4年次男信吉(のぶよし)の二児に恵まれ恵比寿大神の授り児と信じて大切に養育長ずるに及んで徳川家康に仕えて共に信任厚く兄照守は馬術の名手として其の名高く御旗奉行に累進して知行2500石を賜りました。特に弟信吉は思慮深く誠実実行の人格者として知られ常に家康お座右に待し常州水戸藩の創設に当りては初代頼房の訓育を委ねられ諸事万端一切を司り、水戸藩の基礎を築き其の功により元和8年水戸の在松岡に25000石を賜わり松岡城主となり寛永5年5月従五位下備前守に任し水戸家の筆頭家老として忠節をはげみ寛永19年正月6日遂に病没したが遺した多くの書物は後に光圀の大日本史を編纂するに当たり貴重なる参考資料となり蔭の功労者中山信吉の名は偕楽園の梅の香と共に今なを薫り高く知られて居ります。尚其の子孫は代々水戸家の名家老として明治維新に及びました。
又奉祀せられた恵比寿大神に領主の崇拝・庶民の信仰と相知し是を信ずる者は家運開け子孫繁栄して家庭は円満に繁盛致しました。
此の霊験を伝え聞き及んだ善男善女は福徳円満子宝恵授の神として参詣する者絶えず社運益々盛んに荘厳なる社殿は諏訪八幡神社と並び仰がれたのであるが、安永5年3月不慮の火災に罹り共に灰燼に帰し其の後諏訪神社は氏子多数の信仰により再建されましたが、当恵比寿大神の社殿は領主中山家代々の江戸転移と共に信者離散して遂に再建ならず御仮社のまま幾星を迎えました。
尚中山家館跡と近くの常寂山智観寺に眠る信吉の墓は共に埼玉県史跡として、又中山家代々の墓は武陽山能仁寺に飯能市史跡として保存されて居ります。
社殿の造営に就いて
右飯能恵比寿大神は御仮社のまま永らく世間から忘れられて居ましたが最近武蔵野七福神の一つとして参拝者日毎に増加しつつありますので関係者一同現在の姿を見るに忍ばず社殿の造営を計画広く浄財を募り是に応ずる多くの信者の協力を得て茲に荘厳な社殿の完成を見ました。社運の復興迹きにありしと信ずる次第であります。(境内掲示より)

もと別当寺大泉寺について

大泉寺
神光山と号す。前寺と同宗、同末(新義真言宗、郡中新堀村聖天院末)なり。本尊は不動を安ず。(新編武蔵風土記稿より)


諏訪八幡神社の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿
  • 「飯能市史資料編Ⅳ社寺教会」