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八枝神社。上尾市平方の神社

八枝神社の概要

八枝神社は、上尾市平方にある神社です。八枝神社の創建年代等は不詳ながら、元禄年中(1688-1704)には社として成立しており、天王社・牛頭天王社と称していたといいます。明治維新後に京都八坂神社の枝社という意味を込めて、八枝神社と改めたといいます。

八枝神社
八枝神社の概要
社号 八枝神社
祭神 素戔嗚尊、狛狗大神
相殿 -
境内社 疫神社、八幡社
祭日 -
住所 上尾市平方488
備考 -



八枝神社の由緒

八枝神社の創建年代等は不詳ながら、元禄年中(1688-1704)には社として成立しており、天王社・牛頭天王社と称していたといいます。明治維新後に京都八坂神社の枝社という意味を込めて、八枝神社と改めたといいます。

新編武蔵風土記稿による八枝神社の由緒

(平方村)天王社
正覺寺の持。(新編武蔵風土記稿より)

「上尾の神社・寺院」による八枝神社の由緒

江戸時代は、牛頭天王社と称して天台宗正覚寺の持であった。同寺に存した、元禄七年の「平方寺社地御改之覚」という文書によると、古来より除地とされていた。「古来より」ということで、同年より古い事が察せられる。明治の神仏分離で正覚寺が廃されると「八枝社」と称せられ、平社に列せられた。(「上尾の神社・寺院」より)

「埼玉の神社」による八枝神社の由緒

八枝神社<上尾市平方四八八(平方字横町)>
平方は、荒川の舟運における主要な河岸の一つである平方河岸があった所として知られている。当社は、この河岸の近くに鎮座し、疫病除けの神として信仰されてきた。境内にある三本の大欅は、創建当時からあるものと伝えられ、大切にされている。そのうちの二本は樹齢五〇〇年以上と推定される古木であるが、樹勢は強く、その枝張りは境内全域を覆い尽くすほどである。
祭神は素盞嗚尊で、神仏混淆の時代には牛頭天王を祀っていたことから、天王社と称し、正覚寺という天台宗の寺院の持ちであった。文政八年(一八二五)に氏子中が奉納した亀田鵬斎書の幟旗に「四隣同迎牛王神」とあり、文化十一年(一八一四)銘の石製の社号額に「牛頭天王社」とあるのはそのためで、今も「天王様」と呼ぶ人が少なくない。「八枝」の社号は、神仏分離以降に使われるようになったものであるが、これは京都の八坂神社を勧請した意とされている。
当社の創建について、『明細帳』は、「元禄年中(一六八八-一七〇四)の創立にして正徳元卯年(一七一一)六月十五日再建其他不詳」と記している。しかし、正覚寺に所蔵されていた元禄七年(一六九四)の「平方村寺社地御改之覚」(福田家文書)に、当社の社地が古くから除地とされていた旨が記されているため、ささやかな祠や仮宮などの形で、それ以前から何らかの祭祀が行われていた可能性もある。
ちなみに、当社が、現在のような姿になったのは、大正八年のことである。それまでは、神木の大欅の根方に牛頭天王の石祠が祀られ、その側に獅子頭を納めた堂があるだけであった。平方の鎮守であった氷川社が、明治四十年に近隣の村社を合祀して橘神社となった際に社殿を新築したことに伴い、不要になった同社の古い本殿を移して当社の本殿にすることになった。更にこれに伴って、幣殿と拝殿も新設された。その後、昭和六年九月二十一日の地震により、社殿が半潰したがすぐに復旧されて現在に至っている。
一方、別当の正覚寺は、別所村(大宮市別所)福正寺の末寺で、威徳山宝聚院と号し、不動明王を本尊とする天台宗の寺院であり、当社の境内には同寺の名を刻んだ手水鉢も残っている。神仏分離により、正覚寺は明治六年に廃寺となったため、住職は福田良中と名乗って還俗し、武蔵一宮氷川神社社家の西角井家から神道を学んで神職となった。良中の後も、福田家が神職として当社に奉仕を続けており、つる(女)・弥吉・正二郎・文彦と襲っている。
なお、正覚寺跡の堂宇を使って、明治五年には小学校が開設された。江戸時代に正覚寺では寺子屋が行われており、同寺にあった正徳三年(一七一三)銘の「施主平方村手習子五十三人」という筆子塚は、現在は観音堂墓地にある。(「埼玉の神社」より)


八枝神社所蔵の文化財

  • 平方祇園祭のどろいんきょ行事(埼玉県指定無形民俗文化財)
  • 武州平方箕輪囃子(上尾市指定無形民俗文化財)
  • 八枝神社の境内ケヤキ・エノキ群(上尾市指定天然記念物)

平方祇園祭のどろいんきょ行事

「平方祇園祭のどろいんきょ行事」は「天王様」や「夏祭」とも呼ばれ、悪疫退散などを祈願した祭りである。本来は七月一四日、一五日を祭日としたが、現在は七月下旬の日曜日に行われている。古くは旧平方村全体の行事で、上宿・下宿・南・新田の4地区を順番に神輿が渡御する形で行われてきた。大正一二(1923)年の渡御を最後に、4地区合同でのどろいんきょを含む神輿渡御は行われなくなった。その後、天王様は、4地区それぞれで神輿渡御が行われ、どろいんきょも各地区で小規模に行われる程度であった。こうした中、上宿地区は、昭和四八(1973)年にどろいんきょを本格的に復活させた。
天王様の行事では、主として八枝神社から出る普通の神輿1基と、装飾のない白木作りの隠居神輿1基の合計2基が神酒所を巡りながら渡御する。神酒所とは、渡御の途中に立ち寄り、休憩する場であり、この中で実施可能な場所を選び、どろいんきょが行われている。休憩の後、あらかじめ水を撒いてある庭などで、神輿の担ぎ手である若衆たちが、さらに水を掛けられながら隠居神輿を地面に転がし倒し、どろいんきょが始まる。隠居神輿の由来は定かではないが、この隠居神輿も担ぎ手も泥だらけになることから「どろいんきょ」と呼ばれている。
祭り当日、昼過ぎに神輿が八枝神社を出発する「お山出し」で、神輿の渡御が始まる。神輿・隠居神輿・囃子連の順に進み、神酒所のうち5か所程度で、どろいんきょを行う。
渡御の途中、隠居神輿を垂直に立て、この上に役者に扮した若者が乗り、これを曳き歩く「山車の曳廻し」や、垂直に立てた隠居神輿の上での「ひょっとこ踊り」なども行われる。午後9時ごろ、最後の神酒所を出た一行は「お山納め」となり、八枝神社に帰り神輿を返して、祭りは終了となる。
平方祇園祭のどろいんきょ行事は、いんきょ神輿を泥だらけにして転がす等、他に類例を見ない内容で伝承されており、地域的な特色を持った行事として、夏祭りの民俗的要素やその変遷を考える上で貴重な民俗行事である。(埼玉県・上尾市教育委員会掲示より)

武州平方箕輪囃子

上尾市とその周辺地域には、江戸ばやしの系統を引く祭りばやしが伝承されている。江戸ばやしは、葛飾ばやしと神田ばやしの二つの系統に分かれるが、いずれも大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の5人1組で編成されている。
武州平方箕輪囃子は、神田ばやし系の古っぱやしで、元は上宿・下宿・南の3地区で三好連といい、川越市の鹿飼から伝承された。
祭りばやしの編成は、大太鼓1人、小太鼓2人、すり鉦1人、笛1人の5人1組である。曲目には「屋台」「昇殿」「鎌倉」「神田丸」「仁羽(ひょっとこ囃子)」「子守歌」「数え歌」がある。「仁羽」は踊りをまじえながら演奏することもある。
上演の機会としては、七月七日の御仮屋、七月中旬の八枝神社祇園祭りであるどろいんきょ祭り、一〇月中旬の橘神社お日待ちがある。
タカウマに乗せての移動しながらの演奏や、櫓の上での演奏など多様な演奏形態を維持していること、戦争により一時の中断をしているが、その後に復活し、古くから継続的に伝承されていることは市内でも貴重である。また、県指定無形民俗文化財である「平方祇園祭のどろいんきょ行事」の付属芸能としても欠かせない要素となっている。(上尾市教育委員会掲示より)

八枝神社の周辺図

参考資料
  • 「新編武蔵風土記稿」
  • 「上尾の神社・寺院」(上尾市教育委員会)
  • 「埼玉の神社」(埼玉県神社庁)