蓮花寺|大田区西蒲田にある真言宗智山派寺院

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福田山蓮花寺|玉川八十八ヶ所霊場、東海三十三観音霊場

蓮花寺の概要

真言宗智山派寺院の蓮花寺は、福田山蓮沼院と号します。蓮花寺は、寛弘年中(1004-11)恵心僧都が草創したと伝えられます。嘉禄康元(1225-56)年間に、当地領主の荏原兵部有治が発心して法名蓮沼法師となり、鎌倉将軍家宗尊親王より御教書を拝領して中興しました。江戸期には福田山蓮光院蓮華寺と称していましたが、現在は福田山蓮沼院蓮花寺としています。玉川八十八ヶ所霊場70番、東海三十三観音霊場10番です。

蓮花寺
蓮花寺の概要
山号 福田山
院号 蓮沼院
寺号 蓮花寺
住所 大田区西蒲田6-13-14
本尊 十一面観世音菩薩
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場70番、東海三十三観音霊場10番、もと蓮沼熊野神社の別当寺



蓮花寺の縁起

蓮花寺は、寛弘年中(1004-11)恵心僧都が草創したと伝えられます。嘉禄康元(1225-56)年間に、当地領主の荏原兵部有治が発心して法名蓮沼法師となり、鎌倉将軍家宗尊親王より御教書を拝領して中興しました。江戸期には福田山蓮光院蓮華寺と称していましたが、現在は福田山蓮沼院蓮花寺としています。

「大田区の寺院」による蓮花寺の縁起

寺伝によれば、寛弘年中(1004-11)恵心の草創にして、嘉禄康元(1225-56)の頃、蓮沼法師の中興開山なりという。蓮沼法師は俗名を荏原兵部有治といい、当時荏原郡の地頭であったが、天性狩猟を好み、ある時鴛鴦の雄を射殺した。その夜、彼の雌が恨の歌を読み述べるを夢見て、朝、雄を殺した所へ行って見ると、雌もまた死んでいた。鳥類にしてかくの如しと、菩提心を起して当寺に入り、剃髪して中興の開山となり、鎌倉将軍家宗尊親王から御教書を拝して、8町4方の地を賜わり、七堂伽藍を建立したという。
その後、天文年中(1532-54)近郷が兵火に犯された時、この寺にも火がかけられたが、すぐには燃えなかったので、まづ本尊を奉じてそばの蓮沼へ移したと見るや、忽ち火は燃え広がり、悉く灰壇に帰したという。土地の人々は、それ以来、この本尊を火除観音と称して崇め、村内に火災の患はなくなったと伝えられる。今次の戦災には、本尊を除いて全焼した。
  孟蘭盆には「双盤念仏」が行われていたが、できる人が少くなり、大正末年頃から廃絶した。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による蓮花寺の縁起

除地2段、村の中央にあり。新義真言宗、高畑村宝幢院末、福田山蓮光院と号す。寺伝に当寺は寛弘年中恵心僧都の草創なり。中興開山は蓮沼法師、俗称を荏原兵部有冶と云て、もと此地の領主なり。此人発心のゆへを尋るに、天性田猟を好みけるが、或時山野を経歴するの次、鴛鴦の雄を射殺せり。其夜彼鴛鴦の雌歌をゆみて恨の心を述ぶると夢みたれば、明るを待て彼雄を殺せし地を見しに、果して雌もそこに死したりければ、鳥類といへどもかかる感あることを便なきことに思ひ、これを善知識として菩提心をおこし、当寺に入て剃髪し、遂に中興の業をなせり。康元正嘉の頃、鎌倉将軍家宗尊親王より御教書を下して、八町四方の地を賜はり、七堂伽藍を立てりと、鴛鴦のことはことに奇怪にわたれり。案に「沙石集」に下野国安曾沼と云所にて鴛鴦の怪談ありしこと見え、又「佐倉風土記」にも下野国印旛郡安曾沼にこの事を載す。其他信濃国にも是と同じことあり、されば寺伝も例の浮屠氏の付会せしこといふにたらず。
門。南向、両柱の間7尺。
本堂、四間四方、南向、本尊十一面観世音、立像2尺6寸行基の作なるを安ず。相傳ふ天文年中近郷兵火の為に焼かれし頃、此堂へも火をかけしに、しばしがほど焼ざりし故、うちよりてまづ本尊を取出し、側の蓮沼へ移せしかば、忽ち火災延びて本堂及び其他の什寶悉く烏有となりしと。境内のせばまりしも此時のことなり。土人それより此観音を祟て、火除観音と称し、今に至て村内火災の患いなしと。
又の傳へに、昔行方弾正此地を領せし頃、自ら法華宗を信ぜしが、他宗なればとて当寺を焼き払ひしことありと、彼兵火のために烏有せしと云へるは、もしくは此時なりやたしかなることを知らず。(新編武蔵風土記稿より)


蓮花寺所蔵の文化財

  • 十一面観世音菩薩立像(大田区指定有形文化財)

十一面観世音菩薩立像

十一面観世音菩薩立像は、当寺の本尊で、天文年間(1532-55)に当時の領主で法華宗信者でもあった行方弾正に本堂を焼かれた際にも兵火を免れたともいわれ、火除観音とも称されます。

木彫一木造り、彫眼、像高90cm。
造像の年代、作者はわからないが、鎌倉期の様式を示す優作である。戦災で光背、台座などを失い、台座は後補されたが、保存状態はよい。
縁起によれば、当寺は嘉禄、康元(1225-56)ごろに、荏原郡の地頭であった荏原兵部有冶によって中興されたと伝えられる。 この像は天文年間(1532-55)の兵火にも消失を免れたため、俗に火除観音の呼ばれたて崇信された。

蓮花寺の周辺図