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密蔵院|大田区田園調布南にある真言宗智山派寺院

密蔵院の概要

真言宗智山派寺院の密蔵院は、明楽山と号します。密蔵院の創建年代は不詳ですが、慶長年間に火災で類焼、檀徒森庄兵衛(2代、元和5年5月4日没)が本堂を再建したことから森立寺と改称したといいます。古くから多くの庚申塔があり、沼部の庚申として著名だったほか、新田義興が謀殺された時、義興の怨念が雷火となって江戸氏方の将兵が逃げ込んで難を避けたという雷よけ観音があります。また、玉川八十八ヶ所霊場56番です。

密蔵院
密蔵院の概要
山号 明楽山
院号 密蔵院
寺号 -
住所 大田区田園調布南24-4
本尊 大日如来像
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 玉川八十八ヶ所霊場56番



密蔵院の縁起

密蔵院の創建年代は不詳ですが、慶長年間に火災で類焼、檀徒森庄兵衛(2代、元和5年5月4日没)が本堂を再建したことから森立寺と改称したといいます。古くから多くの庚申塔があり、沼部の庚申として著名だったほか、新田義興が謀殺された時、義興の怨念が雷火となって江戸氏方の将兵が逃げ込んで難を避けたという雷よけ観音があります。

「大田区の寺院」による密蔵院の縁起

当寺開創の年代はわからない。寺伝では慶長末期に本堂が火災で焼失し、本尊をはじめ総てを失ったといっている。当時の有力檀徒森庄兵衛(2代、元和5年5月4日没)が本堂を再建したので森が立てた寺であるとし、この時より寺号を森立寺と改めたという。
11世典亮は享保から宝暦にかけて法流の開祖として寺門の興隆に活躍した。
明治期に入り25世定欣は寺院内外の整備を行ったが、26世定吽も本堂改築の念を起し、昭和16年(1941)着工し、昭和18年(1943)現本堂を完成させた。昭和20年(1945)戦火を受けて書院、庫裡を焼失し、寺宝や古文書の大部分を失った。現在の庫裡や庚申堂の新築は現住が昭和34年(1959)以降に行ったものである。
(庚申堂の沿革)
庚申堂がはじめて建てられ、青面金剛がそこに安置された年代はわからない。しかし、かなり古い時代からも”沼部の庚申”として多くの信者があり、参詣人があったようである。安政3年(1856)に関東に大暴風雨があったとき堂字が倒壊したので、その後は本堂内の一室に安置されていた。明治16年(1883)当寺25世定欣の代に、当寺に起居していた多摩川の砂利採掘の監督の夢枕にたびたびこの青面金剛が立って、衆生済度のため世に出たいことを訴え、信仰すれば願い事を成就すると告げた。この監督は早速限病平癒を祈願して、日夜信仰したところこれが癒ったという。このことから再び信者の数が増え、講中もできて盛大になった。昭和40年(1907)庚申堂が再建された。
  (観音堂の沿革)
現在境内にある観音堂は、もと当寺から約200m西方多摩川の傍こあったが、ある時多摩川の洪水で堂字が流され、7体の観音像も流されてしまい、そのうち2~3体のみが光明寺池に流れついた。しかし他の観音像はどこかえ行ってしまった。そのときから観音堂は境内に移され、堂のそばにあった榎の樹が枯れたので、この木をつかって、なくなった観音像をつくったという。
この観音像は雷よけ観音と呼ばれており、新田義興が延文4年(1359)に矢口の流しで謀殺された時、義興の怨念が雷火となって竹沢、江戸の将兵をおびやかした。その時将兵はこの観音堂に逃げ込んだところ、この観音の加護で難を避けたという。それ以来雷よけ観音と呼ばれるようになったといわれている。(「大田区の寺院」より)

新編武蔵風土記稿による密蔵院の縁起

(下沼部村)密蔵院
村の東によれり。次太夫堀の上にあり。明楽山と号す。新義真言にて高畑村宝幢院の末なり。法号の開祖法印曲亮と云。宝暦6年11月20日寂す。開基当村の住人森傳次郎と云ものなり。よりて寺号を森立と称せり。
本堂。6間半に5間半なり。巽の方を向ふ。本尊大日如来を安ず、木の坐像にて長1尺3寸也。
表門。幅9尺、同く巽を向ふ。門外に石燈9級あり。其前に小橋あり。則ち次太夫堀へ架す。(新編武蔵風土記稿より)


密蔵院所蔵の文化財

  • 青面金剛及び二童子四夜叉立像(大田区指定文化財)
  • 庚申供養塔(大田区指定文化財)
  • 大日如来坐像(大田区指定文化財)
  • 弘法大師坐像(大田区指定文化財)

青面金剛及び二童子四夜叉立像

木彫寄木造で彩色を施し、像高91cm、二童子、四夜叉、三猿を具備。「沼部の庚申さま」として、江戸時代から現代に続く更新信仰の本尊として、尊信の対象となっています。
造像年については永らく不明でしたが、平成17年(2005)に行われた保存修理の際、青面金剛の胎内から古文書等が発見され、元禄7年(1694)、野村文左衛門秀豊らを施主とし、江戸浅草町の大仏師浄心が造像し、多数の結縁者が関わっていたことがわかりました。
また、文化9年(1812)地元の大仏師楠運彫により修理されたことも明らかになりました。地元の庚申講は、現在も行われています。(大田区教育委員会掲示より)

庚申供養塔

寛文元年(1661)に造立された本区最古の庚申供養塔。当時の沼部村村民の有志8名が造立したもの。舟型の石に地蔵菩薩像を彫った形態は、初期の庚申供養塔の様式を示している。
銘文中の「庚申待」の文字は、本区所在の庚申塔中最初の記載で、庚申待の習俗を知る資料としても貴重である。
庚申待とは、道教の思想に基づく民間信仰で、庚申の日に人びとが宿に集まって、徹夜で談笑し、厄除息災を祈念する風習である。(大田区教育委員会掲示より)

大日如来坐像

木造寄木造り、玉眼、漆箔、像高26cm。
本像は当時の保存で、像底の墨書銘により鵜の木村の真雄院覚源が願主となり、寛永11年(1634)に造立されたことがわかる。
保存状態もよく、小型ではあるが、作風も江戸初期の典型的な様式を示すもので、在銘の大日如来像として貴重な存在といえよう。(大田区教育委員会掲示より)

弘法大師坐像

(下沼部村)密蔵院
木造(檜材)、彩色、玉眼(水晶でつくった眼)像高42.6cm。
この像は、像底に書かれた墨書銘から、寛永7年(1630)に、弘法大師を信仰する人びとによって造られ、その後、宝暦7年(1757)に再興(修復)されたことがわかる。
また像底名の両年の日付は、御影供(弘法大師の尊像を供養する真言宗の法会)にあたる3月21日と記されているので、造像も修復もともに、この法会に因んでなされたと考えられる。
小像ではあるが、製作時期の明確な江戸時代初期の弘法大師像として貴重である。(大田区教育委員会掲示より)

密蔵院の周辺図


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