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練馬十一ヶ寺|練馬区練馬にある浄土宗の寺院群、旧田島山誓願寺塔頭

練馬十一ヶ寺の概要

練馬十一ヶ寺

浄土宗の練馬十一ヶ寺は、練馬十一ヶ寺の一です。浅草にあった田島山誓願寺の塔頭のうち十一ヶ寺が、関東大震災後当地へ移転、十一ヶ寺を通称して、練馬十一ヶ寺、田島山十一ヶ寺と呼びます。十一ヶ寺とは、仁寿院迎接院本性院得生院九品院林宗院称名院受用院仮宿院宗周院快楽院の十一寺院です。

練馬十一ヶ寺の概要
名称 練馬十一ヶ寺
住所 練馬区練馬4-25、練馬区練馬4-26
葬儀・墓地 -
備考 田島山十一ヶ寺



練馬十一ヶ寺の縁起

練馬十一ヶ寺は、関東大震災で被災した田島山誓願寺の塔頭が順次当地へ移転しました。

練馬の寺院による練馬十一ヶ寺の沿革

本坊誓願寺の開山東誉上人は、将軍家康より神田豊島町(現在の須田町柳原付近旧お玉ヶ池畔:繁栄お玉稲荷大明神地)に1万坪の土地を賜り、相州小田原より殿堂を移して建立した。
この時塔頭6院[仮宿院得生院、徳寿院(多磨霊園に移転)、九品院、西慶院(九品院に合併)、快楽院]を設けた。
下って明暦3年(1657)4月江戸大火(振袖火事)に遇い一山一朝にして灰燼に帰し、ふたたび徳川家の命により浅草田島町の地に移転、本坊塔頭を建立し、新たに本性院宗周院、長安院、実昭院、長寿院の建立を見た。
この間徳川家の外護、特に桂昌院のための菩提として御朱印300石(神奈川県生麦田島村)および別院屋敷として麻布田島町(現在の北里研究所の地)等に土地を賜り、また代々本住職の牌所(位牌所または隠居所の意)として仁寿院称名院等が塔頭として創立され、さらに常念仏道場として迎接院の創立を見るに至った。
享保年間(1716-36)に徳川家十人衆(当時の御用商人)並びに土井家、本多家、三浦家、刈谷家が各塔頭を宿坊として外護の任に当った。
各宿坊はそれぞれ有力な外護を持ったが、いずれも本坊の支配下にあって、各院住職は本坊に輪番出勤の制度であった。
明治維新の改革により、御朱印地は国に没収されるに至って、本坊の維持が困難となり、各院は本坊より別れて各々1ヶ寺として独立し従来の宿坊制度の各取次檀家は各院所属の檀家となった。
大正12年の大震災により全院が焼失したので一山総集会を開催し郊外移転復興を決定、各寺住職より委員を選出して移転事務所を開設、協力して昭和2年(1927)より先ず墓地を練馬の北谷戸山(現在地)に移転し、ついで各寺の堂宇を同地に起工、竣工の上浅草田島町仮屋より移転して現在に至った。(資料昭和11年刊行「得生院縁起」による)(元宿坊の田島山誓願寺は多磨霊園正門近くに移転。今は十一ヶ寺との関係はない。)
寺院は、入口中央道路の右側より快楽院宗周院仮宿院受用院称名院林宗院、左側に仁寿院迎接院本性院得生院九品院と並び、ほとんどの寺院が書院形式をなっている。
東奥にそれぞれの寺院の墓地があり、書道家、篆刻の名人として有名な池永道雲や本草学者として名高い小野蘭山の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族、あるいは歌舞伎の名優初代沢村宗十郎らの墓がある。(「練馬の寺院」より)

練馬区教育委員会掲示による練馬十一ヶ寺の沿革

十一ヶ寺とは、仁寿院迎接院本性院得生院九品院林宗院称名院受用院仮宿院宗周院快楽院の十一寺院の俗称で、もとは田島山誓願寺(浄土宗・現在は府中宙の多摩霊園正門並くにある) の塔頭寺院でした。 田島山誓願寺は江戸時代初めに小田原から江戸神田神田に移り、さらに明暦3(1657)年の振袖火事後、浅草田島町に移転しました。この頃は幕府から朱印三百石を与えられ、檀家には豪商も多く十六院もの塔頭寺院を持つ大きな寺でした。明治以降、各塔頭寺院は本坊の田島山誓願寺から独立し、大正12(1923)年の関東大震災後に十一の塔頭寺院がここに移転しました。 墓地には、本草学者として名高い小野蘭山や、書道家としてまた篆刻の名人として有名な池永道雲の墓をはじめ、札差として権勢を誇った青地善春一族あるいは名優のきこえ高い初代沢村宗十郎らの名墓があります。(練馬区教育委員会掲示より)


練馬十一ヶ寺所蔵の文化財

  • 池永道雲墓(東京都指定旧跡、受用院墓地内)
  • 小野蘭山墓(東京都指定旧跡、迎接院墓地内)
  • 青地善春一族墓
  • 初代沢村宗十郎墓
  • そば食い地蔵(九品院境内)

練馬十一ヶ寺の周辺図

快楽院 仮宿院 宗周院 受用院 称名院 仁寿院 迎接院 本性院 得生院
参考資料
  • 練馬の寺院(練馬区教育委員会)