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石神井城跡|練馬区石神井台の観光名所

石神井城跡の概要

石神井城跡は、練馬区石神井台にある観光名所で石神井公園内にあります。石神井城跡の築城年代は不詳ながら、当地を領有していた秩父平氏の一族豊島氏が、平安時代から室町時代にかけて居城としていたといいます。文明8年(1476)の長尾景春の乱に際して、城主豊島泰経は、太田道灌に敗れ、石神井城は落城したといいます。

石神井城跡
石神井城跡の概要
名称 石神井城跡
みどころ -
区分 観光名所・旧跡
住所 練馬区石神井台1-26-1
備考 -




石神井城跡

石神井城跡の築城年代は不詳ながら、当地を領有していた秩父平氏の一族豊島氏が、平安時代から室町時代にかけて居城としていたといいます。文明8年(1476)の長尾景春の乱に際して、城主豊島泰経は、太田道灌に敗れ、石神井城は落城したといいます。

東京都教育委員会掲示による石神井城跡について

石神井城は、秩父平氏の一族で、石神井川流域を中心とする現在の東京都区部北側の地域に平安時代末期から室町時代中期頃まで勢力を持っていた、豊島氏の居城でした。石神井川と三宝寺池に挟まれた標高約四九メートルの舌状台地上に所在し、東西約三五〇メートル、南北三五〇メートルの規模の主廓と外廓からなる、比較的単純な構造の中世城郭です。昭和三一年(一九五六)以降の数次の発掘調査によって、主廓や土塁築土から一二世紀から一六世紀前半までに属する陶磁器が出土しています。
文明八年(一四七六)の長尾景春の乱の際、当時の城主豊島泰経は景春に与したので、扇谷上杉氏の家宰太田道灌に攻められることとなり、翌年、石神井城は落城しました。落城後、泰経が白馬に乗って三宝寺池に深く沈み、長女照姫も後を追って入水したなど、落城にまつわる伝説が伝えられています。(東京都教育委員会掲示より)

練馬区教育委員会掲示による石神井城跡について

石神井城は、豊島氏の城です。
豊島氏は、葛西、江戸両氏とともに、秩父流平氏で、鎌倉時代の末には、石神井郷を領有していました。
室町時代に、城主の豊島泰経は、武蔵守護の上杉顕定にそむいた長尾景春に味方しました。そのために顕定を援助していた江戸城主の上杉定正の重臣の太田道灌は、文明九年(一四七七)四月この城に泰経を攻めて、これを落しました。
石神井城は、中世の平城の一つで、三宝寺池の谷と石神井川の低地とに挟まれた小高い丘陵の上にあってその周囲は空堀や土囲でめぐらされていました。
いまでも空堀のあとの一部を見ることができますが、落城によって照姫が水中に身を投げたという伝説など数々の哀れな物語を秘めています。(練馬区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による石神井城跡について

(上石神井村)石神井城跡
村の東の方氷川社三寶寺境内の邊是なり、廣さ東西六七丁南北三丁許、太田豊島兩系譜及三寶寺縁起等を閲するに、豊島権守清光か子を右馬允朝経と云、朝経か四代の孫を三郎兵衛泰景と稱す、是當城の主たり、泰景卒し其子朝泰幼なりしかば、泰景の弟左近大夫景村元弘念中遺跡を繼、在城して朝泰を守立、成長の後所領を返し當城を譲れり、朝泰か八代の孫を勘解由左衛門泰経と稱す、文明九年四月泰経弟平左衛門泰明と長尾景春に一味し、管領上杉修理太夫定正に背き、江戸河越の通路を塞ぎけるにより、大田道灌江戸より打て出平左衛門か平塚の城を取巻、城外を放火し手痛く攻けるゆへ、泰経平塚を救はん爲當城を出て、多磨郡江古田原沼袋に於て、道灌と接戦し、泰経泰明敗績して一族みな戦士し残兵力つきて同十八日城遂に陥れり、『鎌倉大草紙』には、文明九年正月豊島勘解由左衛門同弟平左衛門景春に一味し、當城及ひ練馬城を取立、四月十三日道灌と合戦し、泰明は敗死し、泰経は當城を去て、平塚城に籠りし由を載せ、又『天正中年代記』には文明八年四月二十二日石神井城陥ると記せり、前に載る所と年月たかへり、且『大草紙』に據れは此時始て當城を築しにや、文明落去の後當城遂に廢跡となりしなるべし、今城地の様を見るに山城と云程にはあらされと、自然地高にて前はかの三寶寺池に臨み、廻りに堀ありてこの池水を引沃かんには堅固の城郭となるへし、櫓のありし跡にや所々に築山残れり、此より北の方に城山と唱ふる地あり、道灌當城を攻ん時ここに砦を築き軍卒を置し所と云、尚平塚城跡豊島村等併せ考へし。(新編武蔵風土記稿より)


石神井城跡の文化財

  • 石神井城跡(東京都指定旧跡)
  • 石神井城主廓跡

石神井城跡の周辺図

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