萬昌院功運寺。中野区上高田にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

萬昌院功運寺。久宝山万昌院と龍谷山功運寺とが合併

萬昌院功運寺の概要

曹洞宗寺院の萬昌院功運寺は、久宝山龍谷山と号します。萬昌院功運寺は、今川氏真の第4子長得が開基となり天正2年に仏照円鑑禅師が開山した久宝山万昌院と、永井信濃守尚政が開基となり慶長3年に黙室芳誾禅師が開山した龍谷山功運寺とが、昭和23年に合併、仏照円鑑禅師と黙室芳誾禅師とを開山とするといいます。

功運寺
功運寺の概要
山号 久宝山龍谷山
院号 -
寺号 萬昌院功運寺
住所 中野区上高田4-14-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



萬昌院功運寺の縁起

萬昌院功運寺は、今川氏真の第4子長得が開基となり天正2年に仏照円鑑禅師が開山した久宝山万昌院と、永井信濃守尚政が開基となり慶長3年に黙室芳誾禅師が開山した龍谷山功運寺とが、昭和23年に合併、仏照円鑑禅師と黙室芳誾禅師とを開山とするといいます。

「中野区寺院案内」による萬昌院功運寺の縁起

本寺は久宝山万昌院と竜谷山功運寺の両寺が合併したものである。
万昌院は久宝山と号し、天正2年に、今川義元の子氏真の第4子長得が、群馬県室田の長年寺より仏照円鑑禅師を招いて開山した。
功運寺は竜谷山と号し、慶長3年に、永井信濃守尚政が父直勝、祖父重元の菩提を弔うために、愛知県・龍門寺より黙室芳誾禅師を招いて開山した。
両寺とも開山当初は府内にあったが、火災あるいは諸事情により、万昌院は大正3年、功運寺は大正11年に現在の地に移り、昭和23年、両寺は合併し、万昌院功運寺と号した。
墓地には永井家の宝篋印塔や、吉良家14代から17代の墓がある。吉良上野介義央は吉良家17代目に当り、ここに墓がある。
また著名な人物では、旗本白柄組頭領・水野十郎左衛門。浮世絵師・歌川豊国。南蛮外科医の栗崎道有。直心影流の祖・長沼国郷、長沼活然斉綱郷。「放浪記」を書いた作家の林芙美子などの墓もある。江戸町奉行・大岡越前守の墓は昭和35年に同家の菩提所である茅ケ崎浄見寺に移された。(東京名所図会より)

功運寺について

功運寺は、永井信濃守尚政が開基となり、愛知県龍門寺の黙室芳誾禅師を開山に迎えて慶長3年(1598)三田に創建、寺中に3ヶ寺の末寺を擁していたといいます。大正11年上高田へ移転したといいます。

「東京名所図会」による功運寺の縁起

功運寺は。三田功運町二十四番地に在り。龍谷山と號し。曹洞派の禅刹にして。三河國の龍門寺に属す。開山を黙室天周和尚といふ。(天周は江戸名所図会に記する所にして。)開基は天叟慶存和尚なり。當寺は定會地にして、寺格は獨禮なりし。功運町の稱は全く此禅刹より起れり。
當寺は。明治維新の際一旦無住職となれり。舊記散逸せしよしにて。其の詳細を知る能ざる旨。現住職大渓泰童氏より報告ありたり。實に惜むべきことなり。(東京名所図会より)

「芝區誌」による功運寺の縁起

もと區内にあつた功雲寺は、大正十年十二月十四日、中野區上高田町三〇三ノ一に移轉した。(「芝區誌」より)

萬昌院について

萬昌院は、今川氏真の第4子長得が開基、勅特賜仏照円鑑禅師が開山となり天正2年(1574年)に創建、明暦年間以降市谷津久戸八幡町へ移転、大正3年当地へ移転したといいます。(今川氏真の墓所は、今川観泉寺へ改葬)

「東京名所図会」による萬昌院の縁起

萬昌院は津久戸八幡町三十四番地に在り。禅宗にて上野國長年寺の末寺なり。久寶山と號す。開山は勅特賜佛照圓鑑禅師なり。本堂は瓦屋破風造りにて。玄關の天井に一抱許の蜂巣あり。堂の南に紀念塔ありて向阪氏初瀬と刻せり。鐘楼は離れて北位にあり。境内甚だ濶し。
此寺もと市谷長延寺の塔中なりしが。明暦より定火消役宅の公用地(左内阪上)となりしを以て。ここに移轉せしよし。南向茶話に見えたり。
有名なる墓碑の一班を掲ぐれば左の如し。(中略)
吉良義央墓。
同寺にあり。墓の所在は總卵塔の中にて。本堂の横手より後ろに行くまでの中程にあり。高さ八尺程にて。細長き立派なる墓なり。正面には
元禄十五年壬十二月十五日
靈性寺殿實山相公大居士
従四位上近衛少将吉良前上野介源義央朝臣
と誌し。上に空風火水地の五字を鐫りたり。義央の央を歴史其他の諸書に英と署すれども。是は全く誤記するところにして嘗て自筆の詠草を見しに。義央とあり。墓面及過去帳にも。是れ亦同様に記載せるを以て知るべし。而して義央の事蹟に就ては。世人の熟知するところなれば此には記さず。因に云ふ其後孫なるものは五百石にて。維新後に至りても尚連綿としてありしが。今は何れに住居せらるるや知らず。 (東京名所図会より)

「牛込區史」による萬昌院の縁起

久寳山萬昌院、上野長年寺末
慶長九年市ヶ谷に起立、寛文二年御殿山に移る。開山勅特賜佛照禅師興英長應大和尚、慶長五年九月八日寂。中興開山色翁長瑞大和尚、寛永十一年四月四日寂。開基一月長得首坐、寛永二年八月三日寂。舊境内拝領地二千四百六十三坪、内門前町屋八十二坪。(「牛込區史」より)


萬昌院功運寺所蔵の文化財

  • 吉良家の墓所(中野区登録文化財)
  • 歌川豊国の墓
  • 林芙美子の墓

吉良家の墓所

この万昌院は、もと千代田区永田町にありましたが、のち新宿区の市谷・筑土八幡をへて、大正二年現在地に移ってきました。
幕府高家の吉良家は、この寺を菩提寺としていました。義定・義弥・義冬・義央の四代にわたってその墓石・供養塔が建てられています。高さの違いはありますが、いずれも宝篋印塔です。相輪部の彫りが深く、特に請花や笠部の墨飾突起は、どれも外方に向って突出するなど江戸時代の作風を示しています。
義央の石碑面に「元禄十五壬午十二月十五日」と刻まれているのは、赤穂浪士の討ち入りの際に死去した史実を裏付ける金石文として興味深いものです。
なお、昭和五十五年、義央の墓前には「吉良家忠臣供養塔」と「吉良邸討死忠臣墓誌」が建てられました。(中野区教育委員会掲示より)

萬昌院功運寺の周辺図

参考資料

  • 「芝區誌」
  • 「牛込區史」
  • 東京名所図会
  • 「中野区寺院案内」