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境妙寺。中野区上高田にある天台宗寺院

境妙寺の概要

天台宗寺院の境妙寺は、高耀山惠雄院と号します。境妙寺は、日蓮宗寂光寺と称して麹町地獄谷(今の三宅坂附近)に元和年間(1615-1624)創建、寛永6年(1629)千駄ヶ谷へ移転したといいます。日蓮宗不受不施派への弾圧により、元禄12年(1699)大僧都円雄が中興開基となり天台宗に改め、天保5年(1835)には寺号を境妙寺と改称したといいます。明治神宮外苑造営に伴い、大正4年当地へ移転したといいます。

境妙寺
境妙寺の概要
山号 高耀山
院号 惠雄院
寺号 境妙寺
住所 中野区上高田4-9-3
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



境妙寺の縁起

境妙寺は、日蓮宗寂光寺と称して麹町地獄谷(今の三宅坂附近)に元和年間(1615-1624)創建、寛永6年(1629)千駄ヶ谷へ移転したといいます。日蓮宗不受不施派への弾圧により、元禄12年(1699)大僧都円雄が中興開基となり天台宗に改め、天保5年(1835)には寺号を境妙寺と改称したといいます。明治神宮外苑造営に伴い、大正4年当地へ移転したといいます。

「中野区寺院案内」による境妙寺の縁起

当寺は元日蓮宗に属し、高耀山寂光寺と称して麹町地獄谷の地にあった。
寛永6年御城廓造営の時、千駄ケ谷(現・国立競技場所在地)に移転した。
元禄11年に天台宗に改宗し、台宗開基は貞栄。中興十世智順の代天保5年(1834年)に大雄山境妙寺と改称した。
のち、大正4年明治神宮外苑造営の折、現在の地に移転し今日に至る。
当寺の過去帳には塙保己一の名がある。塙保己一は、5才の時失明したが、和漢に通じ、『群書類従』の編集に40の年月を費し完成させている。(「中野区寺院案内」より)

「渋谷区史」による境妙寺の縁起

寂光寺(千駄ヶ谷)境妙寺
天台宗、高耀山惠雄院という。千駄ヶ谷大神宮の隣にあつた。(千駄ヶ谷八幡の条に合致せる天祖神社参照)元和年中麹町地獄谷(今の三宅坂附近)に建立。本尊阿彌陀如来。寛永六年千駄ヶ谷に移つた。はじめ小湊誕生寺末の日蓮宗である。元禄十一年十一月、住僧罪を犯して遠島に処せられ、翌十二年東叡山の末寺となり、天台宗に改めた。この時の開基を、大僧都円雄という。尋で天保五年、寺号をも改めて境妙寺と称した。本尊阿彌陀如来。境内二千六百十二坪。弁天堂、護摩堂、閻魔堂、鐘楼(梵鐘の銘貞享五年。)及び大通院、真立院、善龍院の三支院がある。三支院は、享保年間焼失してから寺跡を失い、弁天は伝慈覚大師作で、弁財天百社参りの第二十九番として名高く、閻魔も閻魔百ヶ所参の一として、知られている。また閻魔堂の附近に、聳える古松を、遊女の松という。東武三十六名松の一つであつた。(「渋谷区史」より)

「四谷區史」による境妙寺の縁起

境妙寺は昔の寂光寺の跡であつて、四谷霞岳町にあるが、以前は千駄谷の内である。高耀山惠雄院寂光寺と稱して東叡山末の天台宗である。境内除地二千六百拾貮坪、元和年中麹町地獄谷に起立した。彼處を用地に上地して寛永六己巳年今の場所に移轉した。元来日蓮宗であつたが、元禄十一年改宗して天台宗になつた、圓雄といふのが改宗當時の開基である。
此寺の入口に古木の名松があつて、これを遊女の松と呼ぶ、寛永の頃将軍遊獵の折、鷹がそれてこの松に留つたので、この稱を賜つたと傳へてゐる。遊女は将軍飼養の鷹の名で、将軍は家光のことであらう。件の命名以前は霞の松と呼ばれてゐた。それは此邊が往古の奥州街道に當つて、曠野の中に亭々として聳えてゐたから斯く名づけられたのであつた。但し現時の松は百五六十年前の植繼で寛永當時のものではない。
寺中に大通院、眞立院、善龍院の三坊があつたが、享保中焼失して銘目ばかりと成り、開基寺跡等は不分明であると文政寺社書上に記してある。(「四谷區史」より)


境妙寺の周辺図

参考資料
  • 「中野区寺院案内」(中野区佛教連合会)
  • 「渋谷区史」
  • 「四谷區史」



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