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多田神社|中野区南台の神社、雑色村鎮守

多田神社の概要

多田神社は、中野区南台にある神社です。多田神社は、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、当地に先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられ、当地雑色村の鎮守となっていたといいます。

多田神社
多田神社の概要
社号 多田神社
祭神 贈正一位鎮守府将軍多田満仲公
相殿 -
境内社 榛名社・御嶽社・阿夫利社、多田稲荷大明神
住所 中野区南台3-43-1
備考 旧雑色村鎮守



多田神社の由緒

多田神社は、寛治6年(1092)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、当地に先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられ、当地雑色村の鎮守となっていたといいます。

新編武蔵風土記稿による多田神社の由緒

(雑色村)多田権現稲荷合社
除地、二千三百三十二坪、外に稲荷除地九十六坪、村の中程にて平地より八九尺許高き所にあり、石階十五級を設く、わづかなる社にて二間に三間の拝殿あり、南向、前に木の鳥居をたつ、鎮座の年代詳ならず、例祭九月廿六日(新編武蔵風土記稿より)

中野区教育委員会掲示による多田神社の由緒

雑色村と多田神社
現在の南台の地域は、古くから雑色(又は雑色村)とよばれていました。そしてこの多田神社を雑色の鎮守としてあがめ現在にいたっています。
当社は、約九百年前、寛治六年(一〇九二)源義家が大宮八幡宮(杉並区大宮二丁目)に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられています。したがって当社の創建の時からすでに雑色の地は大宮八幡宮とのつながりがとりわけ深く、天正十九年(一五九一)の検地帳にも「多東郡大宮之内雑色村」と記され、大宮領に含まれていたことがわかります。また、鎌倉街道と伝えられる古道が両神社〜雑色地域の間に通じていたともいわれています。
「雑色」とは、皇室の文書や道具類を納める倉を管理したり、皇室行事の実施を担当する役所で働いていた人々のことで、その所有地であったことに由来する地名とする説と、大宮八幡宮の造営に働いた人びとの所有地であったことが地名の起りであるとする説があります。(中野区教育委員会掲示より)

境内石碑による多田神社の由緒

多田満仲公は第五十六代清和天皇の御曾孫多田源氏の祖神である。幼少より文武両道に秀で、国家に貢献されたる偉勲功績は、わが国史に燦然として輝き武門の棟梁たる勅諚を賜わり国家鎮護の大任を果たされたるのみならず、或は沼地を開拓して広大なる田畑を造成し、或は河川を改修して農村の拡大に寄与し、併せて源家興隆に確固たる基盤を築かれた。またその成功は関東に及び、特に雑色村の文化向上に尽された事蹟は(甚少)少ではない。仍って時の里人の敬慕浅からぬものがあった。その第二子は歴史上著名な頼光公であり第四子頼信公は平忠常を討ち、関東を平定、続いて頼義・義家の父子二公は前九年・後三年の両役に大軍を率いて奥羽の地に赴きその凱旋の帰途、寛治六年(一〇九二年)祈願達成の報賽として、大宮八幡宮に神鏡を献じ、別当宝仙寺を建立すると共に、大宮八幡宮造建の時の八幡宮神供の雑色料の地である当地に、日頃淑敬する満仲公の祠を建てたところ、雑色村の鎮守社として住民に崇敬されて来たということが「武蔵名勝図会」に記されている。新編武蔵風土記稿には「多田権現稲荷合社」と記されている。慶長二年社殿を再建、更に江戸後期の文政年間修復を加えた。明治十四年改築し、また明治四十四年にも改築したと社史に記してあるが、太平洋戦争後、氏子の急増により昭和三十五年社殿を改築したのが現在の社である。(境内石碑より)


多田神社の周辺図


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