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光明寺|港区虎ノ門にある浄土真宗本願寺派寺院

光明寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の光明寺は、梅上山と号します。光明寺は、僧浄榮が建暦2年(1212)霞ヶ関付近に創建、慶長9年(1604)当地へ移転したといいます。天正19年(1591)、徳川家康と親交のあった当寺第17世住職証高が紅梅を献上したことから、徳川家光から山号を梅上山と改めるよう命ぜられたといいます。

光明寺
光明寺の概要
山号 梅上山
院号 -
寺号 光明寺
住所 港区虎ノ門3-25-1
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



光明寺の縁起

光明寺は、僧浄榮が建暦2年(1212)霞ヶ関付近に創建、慶長9年(1604)当地へ移転したといいます。天正19年(1591)、徳川家康と親交のあった当寺第17世住職証高が紅梅を献上したことから、徳川家光から山号を梅上山と改めるよう命ぜられたといいます。

「芝區誌」による光明寺の縁起

光明寺 神谷町十六番地
西本願寺末派で、梅上山證誠院と號する。建暦二年霞ヶ關に創建し、常楽寺と稱して、天台宗であつたが、天文九年十月改宗して今の寺號に改め、慶長九年現在の地に移つた。開基は僧了營である。(「芝區誌」より)

東京名所図会による光明寺の縁起

光明寺は、神谷町九番地に在り、真宗本願寺派の末寺にして、梅上山と號す。建暦二年、僧浄榮、草創すと、されど記録なければ信じ難し、以前は霞が関邊にありしとなむ、徳川家康公入國の始、寺門を過ぐるに、紅梅の南枝薫せるあるを見て、いたく之を賞美し給ふ、住僧、一枝を手折りて上りしに、梅上山の號を賜はりにき、爾来、毎年一月六日、将軍家に奉るべき例となりぬ、舊地は慶長九年、江戸城造営の際、用地となり、今の地に移れりといへり。
江戸砂子に云、梅上山光明寺、西末、梅花、椿、水仙献上あり、西のくぼ。
家康云々の説、只、云傳ふる所のものに過ぎず、しかりと雖、之を山號に徴し、且又、砂子の文を読めば年々、梅花献上の事實ありしを認むることを得べし。今猶、本堂前、鐘楼の傍に栽うるもの一株、老幹、既に朽ちて、藻を生じたるが、昔ながらの花を點ずと。
境内千餘坪。墓地は堂後にあり、墳の苔を掃へば、
岳之浩の墓。儒、字は子蕩、清暉と號す、通稱英蔵、寛政十年正月十七日歿。
市川鶴鳴の墓。儒、字は八、多門と稱す、寛政七年七月八日歿。
藤江邦良の墓。字は清蔵、播州龍野の儒臣、延享三年六月十四日歿。
同龍山の墓。字は子任。寛政十年七月廿八日歿。(東京名所図会より)

境内掲示による光明寺の縁起

光明寺と梅
天正19年(1591)、徳川家康と親交のあった光明寺第17世住職証高が、境内の紅梅に和歌を添えて献上し、家康をたいそう喜ばせた。そのことを縁として、毎年正月の幕府への寺社献上の第一番として光明寺の梅が献上された。
正保2年(1645)、三代将軍徳川家光が光明寺に立ち寄った際、家康が光明寺の梅を喜んだ故事を聞き、山号を梅上山と改めるよう命ぜられた。これにより、以後、梅上山光明寺と称するようになった。
以上「寺社書上」より抜粋(境内掲示よより)


光明寺所蔵の文化財

  • 明和の大火死者供養墓(港区指定文化財)

明和の大火死者供養墓

明和九年(一七七二)二月二十九日の午後、目黒行人坂の大円寺より出火した火事は、強い西南の風に勢いを増し、麻布・虎ノ門から江戸城郭内・京橋・日本橋・神田・本郷・下谷・浅草などに延焼、千住まで達して、翌晦日の午後にようやく鎮火しました。いわゆる「目黒行人坂火事」で、明暦三年(一六五七)一月十八日の「振袖火事」以来の江戸の大火であったといわれています。この火事で類焼した大名屋敷は一六九、町数は九三四、橋は一七〇、寺は三八二にのぼったと記録にあります。死者は一万四七〇〇人、ほかに行方不明者も四〇〇〇人を超えています。
光明寺の過去帳によれば、境内の山の上に避難した男女九十人が焼死し、寺の本堂・勝手・諸堂も残らず焼失したとあります。この供養墓は、この惨事に心を痛めた当時の住職が、焼死者の供養のために建立したものです。のちに墓は山の上から現在地に移されましたが、火災による惨事を現在まで記憶にとどめるものとして貴重です。(港区教育委員会掲示より)


光明寺の周辺図

参考資料



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