泉岳寺|港区高輪にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

萬松山泉岳寺|赤穂浪士墓所、江戸触頭三ヶ寺

泉岳寺の概要

曹洞宗寺院の泉岳寺は、萬松山と号します。泉岳寺は、徳川家康の命により、門庵宗関が慶長17年(1612)桜田に創建、寛永18年(1641)の大火により、外桜田から当地へ移転したといいます。江戸時代には、曹洞宗江戸触頭三ヶ寺(泉岳寺、青松寺総泉寺)ならびに三学寮として、数多くの末寺を持つ大寺院だったといいます。

泉岳寺
泉岳寺の概要
山号 萬松山
院号 -
寺号 泉岳寺
住所 港区高輪2-11-1
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 曹洞宗江戸三ヶ寺



泉岳寺の縁起

泉岳寺は、徳川家康の命により、門庵宗関が慶長17年(1612)桜田に創建、寛永18年(1641)の大火により、外桜田から当地へ移転したといいます。江戸時代には、曹洞宗江戸触頭三ヶ寺(泉岳寺、青松寺総泉寺)ならびに三学寮として、数多くの末寺を持つ大寺院だったといいます。

泉岳寺案内による泉岳寺の縁起

泉岳寺は慶長17年(1612)に門庵宗関和尚(今川義元の孫)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院です(現在のホテルオークラの近く)
しかしながら寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失。そして現在の高輪の地に移転してきました。時の将軍家光が高輪泉岳寺の復興がままならない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、高輪に移転した泉岳寺は出来上がったのです。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
一般的には赤穂浪士のお墓があることで有名ですが、創建時より七堂伽藍を完備して諸国の僧侶二百名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヶ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていました。
その家風は引き継がれており、人数は少ないものの、大学で仏教を学びつつ泉岳寺で修行を勤めるという若い修行僧が、現在もいます。(泉岳寺案内より)

「芝區誌」による泉岳寺の縁起

泉岳寺 車町五十六番地
橋場の總泉寺、愛宕下の青松寺と併せて、曹洞宗の江戸三箇寺と呼ばれる。下野國都賀郡大中寺末である。「江戸名所圖會」には「坊舎三宇、學寮九宇あり。當寺は往古慶長年間台命を奉じて、門庵宗關和尚外櫻田の地に創建する所の禅刹なり。後寛永十八年辛巳再命ありて、寺を今の地に移したりと云ふ。本尊釋迦如来は座像二尺計なり、脇士は文殊普賢なり。總門の額萬松山の三大字は華僧閩沙門道霈の書にして康凞辛酉孟冬上浣と記せり。」とある。泉岳寺の故地に就いては、もと麻布にあり、正保年間に此地に轉じたといふ説もある。第四世門菴解廬和尚は中興の開山である。當時其境域二萬百八十餘坪。三代将軍家光公の命に依つて浅野家が當時の檀家となつた。此處に赤穂義士四十七人の墓のある事は餘りにも有名であるが、彼等が吉良上野介の首級を打取つて茲に引上げたのは實に元禄十五年十二月十五日の未明であつた。時の住職は第九世酬山長恩和尚で、義士接待役は後の第十世承天則地和尚であつた。明治大帝は始めて東京に入らせ給うた明治元年十一月五日、畏くも宣旨を御下賜になつた。義士祭典は毎年四月一日から同三十日まで、義士祭は毎年十二月十四日(討入記念日)、及び二月四日(切腹忌日)である。山門の内外は所謂門前町をなし、賈店が軒を並べて、義士に因んだ種々の土産物を賈つてゐる。楼門の手前、右側に大石良雄の銅像がある。楼門を潜ると、正面が本堂である。本堂の左手に、義士の木像を安置した木像堂、其遺物を蔵した義士遺物館がある。南方の高丘に墓地がある。墓地に向ふ途の右手には、吉良義央の首を洗つた首洗井戸、及び義商天野屋利兵衛の浮圖がある。墓門はもと霞ヶ關藝州侯の邸の小門で、大石良雄は参府の時必ず其門から入つたので、それを記念する爲め明治三十三年此處に移した。寺内の瑤池梅と稱する梅樹は、浅野長矩夫人が妙海尼(堀部安兵衛の妻)に與へたものだといひ傳へられてゐる。重なる寺寶は釋迦八相曼荼羅(享保十年總州佐倉嶺南寺の青山了恭が、八十歳の高齢で、「大般若経」六百巻、「法華経」八巻の全文を以て畫いたもの、舊日光門主公寛法親王の真筆「祇園精舎圖」の題字がある)で、其他にも所蔵がある。(「芝區誌」より)

江戸名所図会による泉岳寺の縁起

萬松山泉岳寺
海道の右にあり野州冨田の大中寺に属し曹洞宗江戸三箇寺の一員なり、橋場総泉寺青松寺當寺なり。
坊舎三宇学寮九宇あり當寺ハ往古建長年間台命を奉じて門庵宗関和尚外櫻田の地に創建せる所の禅刹なり。後寛永十八年辛巳再命ありて寺を今の地に移したりうといふ。本尊釈迦如来ハ座像二尺計あり、脇士ハ文殊普賢なり。総門の額萬松山の三大字ハ華僧(門に虫)沙門道霈の書にして康煕辛酉孟冬上浣と記せり。
當寺は浅野家の香花院にして其家累代の兆域あり。又浅野内匠頭長矩及び義士四十七人の石塔あり、方丈より南の丘の半腹にあり、傍に當寺住僧建る所の石碑あり。其旨趣を注す二月三月の四日及び正月七日の十六日当にて英名を追慕して、こと集ふ人少からず又當寺に義士等の遺物を収蔵せるもの多し。
元禄十四年三月十四日浅野内匠頭長矩吉良上野介義英を刃傷に及べる。長矩は死を給ふ後其家の長臣大石内蔵助良雄本國播州赤穂に在し君の讐をは共に天を戴へからずと云の義により血盟を以て同志の者をかたらひ終に元禄十五年十二月十四日讐家に至り義士四十七人義英の所在を捜して其首級を得、當寺に至り亡君の墓前に祭るの後誅を待て翌十六年二月四日自殺せしるのは諸書に詳なるを以てこれを省く。(江戸名所図会より)


泉岳寺所蔵の文化財

  • 浅野長矩および赤穂義士墓(国指定史跡)
  • 釈迦八相祇園精舎曼荼羅付「萬松山曼陀羅之記」、「文化五辰年於阿弥陀寺泉岳寺開帳全」(港区指定有形文化財)
  • 絹本着色普照国師(隠元隆き)像土佐光起筆 高泉性とん賛 1幅(港区指定有形文化財)
  • 漆喰造彩色天野屋利兵衛像入江長八作(港区指定有形文化財)
  • 紙本着色蓮舟観音図加藤信清筆(港区指定有形文化財)
  • 大田蜀山人筆狂歌屏風・漢詩屏風(港区指定有形文化財)
  • 天文・永禄年間 古券巻(港区指定有形文化財)
  • 絵馬 市川莚升大星由良之助図(港区指定有形文化財)
  • 泉岳寺中門(港区登録有形文化財)
  • 泉岳寺山門(港区登録有形文化財)
  • 浅野長矩及び赤穂義士墓所門(港区登録有形文化財)
  • 雲龍図雲谷等爾筆(港区登録有形文化財)
  • 弁財天図狩野梅春筆(港区登録有形文化財)
  • 赤穂事件絵巻(港区登録有形文化財)

泉岳寺の周辺図


関連ページ

参考資料

  • 「芝區誌」
  • 江戸名所図会