西応寺|港区芝にある浄土宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

田中山西応寺|寺領10石の御朱印状、オランダ公使宿

西応寺の概要

浄土宗寺院の西応寺は、田中山相福院と号します。西応寺は、光蓮社照誉明寶上人(応永5年1398年寂)が開山となり創建、徳川家康が江戸に入府した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、当時の住職観蓮社智誉存冏大和尚が中興となったといいます。末寺8ヵ寺、寮舎3院を擁する小本寺格の寺院でした。幕末の開国に際してはオランダ公使宿館に充てられていたといいます。

西応寺
西応寺の概要
山号 田中山
院号 相福院
寺号 西応寺
住所 港区芝2-25-6
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 みなと幼稚園併設



西応寺の縁起

西応寺は、光蓮社照誉明寶上人(応永5年1398年寂)が開山となり創建、徳川家康が江戸に入府した天正19年(1591)には寺領10石の御朱印状を拝領、当時の住職観蓮社智誉存冏大和尚が中興となったといいます。末寺8ヵ寺、寮舎3院を擁する小本寺格の寺院でした。幕末の開国に際してはオランダ公使宿館に充てられていたといいます。

御府内寺社備考による西応寺の縁起

増上寺末 芝、田中山相福院西応寺
境内拝領地九千拾八坪二合七夕一才内門前町屋五千七百六拾二坪二合七夕一才
御朱印寺領拾石
起立之儀而人皇九十九代後光厳院御宇応安元戊申年草創開山光蓮社照誉明寶上人応永五戊寅年十月十日寂此條家之末孫田中右衛門尉殿姉明寶上人尼与茂申傳候。
中興観蓮社智誉存冏大和尚十月十日寂年号不知増上寺観智国師法弟天正十九年開草御入国之砌台駕当山ニ入御寄開基之由来御尋有之寺領御寄附之為 仰付其後入御之砌中興存冏大和尚蒙 鉤命一夏九旬の中法幢を建薹百余人之(以下省略)(御府内寺社備考より)

御府内寺社備考による西応寺の縁起

西應寺 西應寺町二十五番地
浄土宗増上寺末派で、田中山相福院と號する。慶安三年創建、尼明賢を開山とする。「落穂集」には「芝西應寺は最明寺時頼の伯母明賢尼の開基に係り、僅かの庵室の如くにて、門前に馬場あり、境内も狭かりしが、一日徳川家康来りて、其由来を聴き、十石を寄せ、一萬坪の地を給したり」とある。昔境内には朝日の松、袈裟掛の松などがあつた。慶應三年十二月二十五日舊薩摩藩邸焼打の砌、堂宇烏有に歸し、其後再建した。
それより前、安政六年四月一日、和蘭船が品川に来た時、領事を本堂に置いたが、維新前後には和蘭公使館に充てられた。(御府内寺社備考より)

西応寺のもと末寺


西応寺所蔵の文化財

  • 最初のオランダ公使宿館跡(東京都旧跡)

最初のオランダ公使宿館跡

安政五年(1858)七月に締結された日蘭通商条約により、翌六年九月一日、オランダ公使宿館をこの西応寺に設置した。使用されたのは書院および庫裡二階などであり、初代公使クルチュウスらが駐在した。文久元年(1861)五月に異人宿手当八五両とその他一五三両で、書院および庫裡などを修理した。しかし、慶応三年(1867)十二月二十五日の薩摩藩邸襲撃事件のとき、兵火によって全焼した。その後再建した建物も今次の戦災で全焼し、旧公使館と見られる場所は、現在、西応寺が経営する幼稚園になっている。(東京都教育委員会掲示より)


西応寺の周辺図


参考資料

  • 「芝區誌」
  • 御府内寺社備考