玉窓寺|港区南青山にある曹洞宗寺院

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崑崗山玉窓寺|青山常陸介忠成朝臣の邸内に創建

玉窓寺の概要

曹洞宗寺院の玉窓寺は、崑崗山と号します。玉窓寺は、慶長年間(1596-1615)青山常陸介忠成朝臣の邸内に設けられた位牌所を起源とし、青山忠成の娘川口長三邸の内室(法名玉窓秀珍大禅尼)が慶長六年(1601)歿去、川口家が初檀家となり、青松寺八世勅特旨賜普光禅師頭室伊天大和尚を勧請開山として赤坂に創建したといいます。明治12年に境内が皇居として接収されることとなり、当地へ移転したといいます。

玉窓寺
玉窓寺の概要
山号 崑崗山
院号 -
寺号 玉窓寺
本尊 釈迦牟尼佛像
住所 港区南青山2-7-13
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



玉窓寺の縁起

玉窓寺は、慶長年間(1596-1615)青山常陸介忠成朝臣の邸内に設けられた位牌所を起源とし、青山忠成の娘川口長三邸の内室(法名玉窓秀珍大禅尼)が慶長六年(1601)歿去、川口家が初檀家となり、青松寺八世勅特旨賜普光禅師頭室伊天大和尚を勧請開山として赤坂に創建したといいます。明治12年に境内が皇居として接収されることとなり、当地へ移転したといいます。

「赤坂區史」による玉窓寺の縁起

曹洞宗玉窻寺(山號崑崗山 芝青松寺末)青山南町二丁目七十三番地
青山常陸介忠成の息女にして、川口長三郎の内室法號玉窻秀珍大禅尼が、慶長六年六月二十六日卒去するや、忠成公内室の志願によつて、慶長九年、右玉窻秀珍を開基として、青山家の下屋敷に於て位牌所玉窻寺を取建て、公儀へ届出でた。その際青山家の歸依僧であつた青松寺第九世、一峯麟曹和尚(元和元年十一月八日寂)を之に招じたが、麟曹和尚の本師たる青松寺第八世、勅特旨賜普光禅師頭室伊天大和尚(慶長五年七月朔日寂)を以て勸請開山となし、麟曹和尚は第二世となつたものである。
後、寛永十五年中家光公が、鷹野の歸途當寺に立寄つたこともあり、越えて天和二年十一月、紀州家との屋敷堺となつてゐた地内に替地を給されて、引移つた。これが維新後まで當時の在つた表町の寺地である。その後明治十二年四月、假皇居の御用地として御圍込となつたゝめに、當寺は移轉費五千八百四十八圓十八銭を下附せられ、現在の地を買入れて移轉したのである。
當寺に傳はる達磨大師像(木立像長一尺八寸)は、寺傳によれば、紀州家から寄附されたもので、佛龕には金葵の紋章を附し、壮厳な古色を帶びたもの、また正觀世音像(長二寸八分)は、同じく紀州家の寄贈に係り、江戸名所圖會に、「中将姫香を以て是を製する所」と記したのは即ち此像である。
改撰江戸志に「将軍家御立寄ありて、あるじの僧に寺領を給ふべきよし命ありしかば、御答に、さして寺領も望み申さず、願くは如来へ年々供する餅米壹俵を賜はるべきよし申しければ、それより今に壹俵つつを給へり。」と記述してゐるが、此事寺傳にはなしといふ。墓地には、廣幡侯爵家の墓所、尊皇家跡部良顯(通稱宮内、光海とも重舒斎とも號した。旗本の家に生まれたが、長じて朱子學及び垂加流神道の薀奥を極め、「南山編年録」を著して南朝正統思想を學的に大成した。享保十四年正月二十七日歿年七十二。贈從五位。)の墓、町奉行跡部能登守(名は良弼、第三十一代江戸南町奉行、第三十三代江戸北町奉行。大鹽平八郎の亂を起せる當時の大坂町奉行。)の墓、儒者佐久間文斎(寛政十一年六月十九日)の墓、肥田濱五郎(伊豆の人安政三年蘭人に就て蒸気機關の技術を習得、同六年勝海舟と共に咸臨丸に乗込み、亜米利加に渡航、維新後海軍に出仕、明治十五年海軍機關總監、二十一年に御料局長となり、二十二年四月廿は地に地東海道藤澤驛にて汽車に溺れて歿す、年六十。)の墓がある。(「赤坂區史」より)

御府内寺社備考による玉窓寺の縁起

玉窓寺
玉窓禅寺は、南町二丁目七十三番地に在り崑崗山と號す、芝愛宕町青松寺の末寺にして、慶長年間青山常陸介忠成朝臣の邸内に位牌所を設来る所なりしを、同六年六月廿六日、川口長三邸の内室(忠成の女)歿去し玉窓秀珍大禅尼と法號し、川口家を以て初檀開基となす、開祖は青松寺八世勅特旨賜普光禅師頭室伊天大和尚なり、其後數度の火災に由緒書類焼失したれば、詳ならざる事多し、明治十二年迄は、赤坂表三丁目に伽藍ありしも、假皇居御用地となるに及び、奉上して此地に移れり、明治二十八年十二月廿八日に至り、柳原愛子、香川敬三の名儀を以て、境内に舊墓地亡霊無縁者の為に供養の塔を建立せられ、永代供養の法を設けらる、本堂及び諸宇の再建は、安政二年の竣工なり、本堂は八間四面にして、開山堂、位牌堂、庫裡門、門番所等孰れも整然たり、
本尊は釈迦牟尼佛にして、別に二體の寶像を安置せり、
達磨の尊像は 麹町舊紀州侯邸地に達磨門といふありしは人の知る所にして、其由来は初め建築の際、木材の木理に達磨大師の尊像現れしを、彫刻して、楼上に安置しけるを、侯の夢に表れて玉窓寺に移るべき由を告げたるにより、之を寄贈ありしといふ、佛龕には金葵の紋章あり、古色を帯び威容凛然、眼光人を射て甚荘厳なるものなり、
観世音 一寸八分の尊像は中将姫の守本尊にして紀州雲雀山に在りしものなるが、紀州侯の有となり候より當寺に寄贈せられたるを、境内に三十餘坪の地を相し、堂を建てかく二尊を安置するなり候より朱印を付與せらるるを、當寺の住職は之を辞して受けざりしといふ、
此二尊像は、伽藍火災に罹りし時、寺僕小川佐太郎、之を負ひて逃れたるにより、今に重寶として傳ふるなり、観世音は安座を祈るに霊験ありとて信仰者多し
江戸名所図會赤坂の條には左の如く記せり、
同所右側、青山家第の間にあり、禅宗にして、開山は普光禅師、開基は青山氏忠俊の女、玉窓秀珍大姉たり、故に法號とす、本尊観世音の像は中将姫香を以て是を製する所といふ。(御府内寺社備考より)


玉窓寺の周辺図


参考資料

  • 「麻布區史」
  • 御府内寺社備考