葺城稲荷神社|港区虎ノ門の神社

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葺城稲荷神社|港区虎ノ門の神社

葺城稲荷神社の概要

葺城稲荷神社は、港区虎ノ門にある稲荷神社です。葺城稲荷神社の創建年代は不詳ですが、松平右近将監の大名屋敷外に稲荷社があることを、葺手町(現・虎ノ門四丁目)の町民が元禄4年(1691)に発見、松平右近将監の許しにより町の氏神として祀られるようになったといいます。

葺城稲荷神社
葺城稲荷神社の概要
社号 稲荷神社
祭神 宇迦之御魂神、須佐之男神、大市比売
相殿 佐田彦大神、大宮能売大神
境内社 -
祭日 -
住所 港区虎ノ門4-1-3
備考 -



葺城稲荷神社の由緒

葺城稲荷神社の創建年代は不詳ですが、松平右近将監の大名屋敷外に稲荷社があることを、葺手町(現・虎ノ門四丁目)の町民が元禄4年(1691)に発見、松平右近将監の許しにより町の氏神として祀られるようになったといいます。

境内資料による葺城稲荷神社の由緒

当社は、江戸時代の元禄4(1691)年に葺手町(現・虎ノ門四丁目)の人たちによって発見された稲荷神社です。
葺手町は、江戸時代の当初(1600年代前半)現在の内幸町にあり、江戸城及び街造りの屋根職人が集まった町でした。
元禄四年七月に江戸城の拡張、江戸の整備の為、現在のこの地に代地替えを倫じられ、移り住んだときに当社が発見されたのです。
この事柄については、「江戸町方書上」に記載されています。「江戸町方書上」とは江戸時代・文政年間(1818~1830年) に徳川幕府が各町の名主に命じて町の由来、現状などを「地理御調書上」として提出させたものをまとめたものです。
それによると当社は現在地よりやや丘の上の方に位置し、松平右近将監の大名屋敷の外 (松平大給家の預かり地) にあったそうです。
葺手町の人たちが殿様にかけ合い当社を町の氏神として奉ることを許され、それ以後、町内の人々が管理・運営をすることになりました。(葺城稲荷神社境内資料より)

東京都神社名鑑による葺城稲荷神社の由緒

天和三年(一六八三)正月、円成寺五世住職が倉稲魂命を奉じ建立したもので、妻恋稲荷と称した。安永四年(一七七五)入御門前家持の伊兵衛が正一位を奉り、入御門前町方の世話持ちとなったが、本殿・拝殿とも大破したので、天保二年(一八三一)三門町の人びとにより、再建される。文久二年(一八六二)六月には、飯倉五丁目より出火のさい類焼したが、ただちに再建された。明治五年より同十年にかけて崖の修築、さらに同十一年太田与三郎が東北角より石垣を新築する。明治二十四年社殿が破損、同二十六年春、鳥井勢以の寄進によって修築されたが、ふたたび破損した。昭和三年十二月、東京市区画整理のため、田中山の一画に本殿・拝殿・社務所を再建する。(東京都神社名鑑より)

江戸町方書上による葺城稲荷神社の由緒

神体幣束 長さ1尺7寸
中宮 幅3尺4寸、横幅2尺7寸高さ5尺4寸
本社 葉場9尺四方高さ8尺
拝殿 表田舎間1間3尺奥行2間高さ8尺坪数3坪
右稲荷の儀は、当時松平右近将監様お囲い外お預かり場のうち、御砂山中段当時の場所に前々より勧請仕りこれあり候由にて元禄四年町内当所へ引き移り候砌より、火防として毎年二月初午に祭礼執行仕り候。
もっとも、城山稲荷と相唱え(後に葺城稲荷に改名)右本社・拝殿などの修復・新規とも町内持ちに御座候。委細の儀は書留なども御座なく候につき相分かり申さず候。
名主 藤吉(江戸町方書上より)


葺城稲荷神社の周辺図


参考資料

  • 江戸町方書上
  • 東京都神社名鑑