大円寺|目黒区下目黒にある天台宗寺院

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松林山大円寺|山手七福神の大黒天

大円寺の概要

天台宗寺院大円寺は、松林山と号します。大円寺は、寛永年間に湯殿山の大海法印が行人坂を切り開いて創建したと伝えられています。大円寺の三面大黒天像は、山手七福神の大黒天となっています。

大円寺
大円寺の概要
山号 松林山
院号 -
寺号 大円寺
住所 目黒区下目黒1-8-5
宗派 天台宗
葬儀・墓地 大円寺仏心閣
備考 山手七福神の大黒天



大円寺の縁起

大円寺は、元和年間(1615-1623)に湯殿山の大海法印が行人坂を切り開いて創建したと伝えられています。明和9年2月(1772)には当寺より出火した火事が江戸市中を巻き込むことになり、江戸城櫓も焼失したことから、本堂再建を許されなかったといいます。

目黒区教育委員会掲示による大円寺の縁起

この寺は「松林山大円寺」といいます。寛永のはじめ、湯殿山の大海法印が寺の前の坂(行人坂)を切り開き、大日金輪を祀って祈願の道場を開いたのがその始まりであると伝えられています。
本寺には”生身の釈迦如来”と言われている木造「清涼寺式釈迦如来立像」(国指定文化財)、「木造十一面観音立像」(区指定文化財)、徳川家の繁栄と江戸発展守護のための「三面大黒天像」(山手七福神の一つ)などが安置されています。
明和9年2月(1772)、本堂から出火、江戸六百余町を焼き、多くの死者を出しましたが、その供養のために造られた釈迦三尊・十六大弟子、五百羅漢の像等の「大円寺石仏群」(都指定文化財)が建てられています。また阿弥陀堂には「木造阿弥陀如来三尊像」(区指定文化財)や八百やお七の火事にまつわる西運上人の木像、お七地蔵などが祀られています。
境内には「行人坂敷石石造道供養碑」(区指定文化財)、「目黒川架橋供養勢至菩薩石像」(区指定文化財)、西運の墓、などがあります。
江戸の面影を残している行人坂の景観や老樹古木のしげる境内は緑の自然と古い歴史が薫る静かな美しい浄域を守っています。(目黒区教育委員会掲示より)

新編武蔵風土記稿による大円寺の縁起

(下目黒村)大円寺
年貢地千六百六十二坪、明王院の隣なり、天台宗行人羽黒派にて浅草正徳院の末、松葉山と號す、開山権大僧都法印大海正保三年十月廿九日寂し、第七世中興開山権僧都亮佑明和八年八月朔日寂す、同九年二月當寺失火し延焼して江戸中に及び、剰御城中御櫓もこの災にかかりしゆへ、御咎を蒙り本堂再建のことを許されず、本尊大日如来及び過去帳以下隣寺明王院に収む、境内の地には五百羅漢の石像をたててあり、この火災の爲に命をおとせしものゝ爲に後人營みしと云。(新編武蔵風土記稿より)


大円寺所蔵の文化財

  • 清涼寺式釈迦如来立像(国指定文化財)
  • 大円寺石仏群(東京都指文化財)
  • 木像十一面観音立像(目黒区指定文化財)
  • 行人坂敷石造道供養碑
  • 木造阿弥陀三尊(目黒区指定文化財)
  • 目黒川架橋供養勢至菩薩石像(目黒区指定文化財)
  • 釈迦如来立像(目黒区指定文化財)

大円寺石仏群(昭和45年8月3日指定)

明和9年(1772)2月に江戸市街地を焼いた大火があり、火元と見られたのが大円寺であった。大円寺では焼死した人々を供養するために、天明頃(1781-9)境内に五百羅漢像等を建立したと「新編武蔵風土記稿」は記述している。
しかし判読できる銘文によると、明和の大火で死亡した者のみの供養ではなさそうであるが、江戸災害史の貴重な記念物であることには変わりない。(東京都教育委員会)

木像十一面観音立像(昭和59年3月31日指定)

この像は一木彫刻で、表面がかなりやつれ、面相も衣文線も制作当初の鋭い彫りの調子を失っているが、造法も作風も古様を伝えている。
やや面長な面相、伏眼がちの眼の表現、細身で長身な体躰等いずれも藤原時代の特色を示し、区内の彫刻の中では最も古い遺品の一つと推定される貴重なものである。

行人坂敷石造道供養碑

この供養碑は、高さ164cm。碑の上部に種子(梵字)キリーク(阿弥陀)サ(観音)サク(勢至)が刻まれています。 下部の碑文によって、この坂を利用する念仏行者たちが悪路に苦しむ人々を救うため、目黒不動尊龍泉寺や浅草観音(浅草寺)に参詣し、通りがかりの人々から報謝を受け、これを資金として行人坂に敷石の道を造り、この成就と往来の安全とを供養祈願したことがわかります。 施主は西運で元禄16年(1703)の紀年があり、江戸と目黒の社寺を結ぶ重要な参詣路であった行人坂開発の歴史を知るうえに貴重な歴史資料です。

木造阿弥陀三尊(昭和59年3月31日指定)

中尊阿弥陀如来像は来迎印を結び、左足を垂下した半跏の姿、観音像は蓮台をもち左膝を立てた典型的な来迎形の阿弥陀三尊であるが中尊が半跏座の姿をとる例は珍しい三尊形式である。 三尊とも江戸時代の典型的な作風を示し、江戸時代の仏像がいずれもこじんまりとしているのに対し気宇広大な特色を持っている。 また両脇侍像蓮台の木札に明和7年(1770)大仏師桃水伊三郎等の銘があることも貴重である。

目黒川架橋供養勢至菩薩石像

下から台座97cm、連座20cm、頂上に宝瓶のついた宝冠をかぶり、両手合掌、半跏趺坐の勢至菩薩像52cmの3段になっています。台座の前面と両側面に、江戸中期における目黒川架橋のことを語る銘文が刻まれています。 銘文によると、宝永元年(1704)に西運という僧が目黒不動龍泉寺と浅草観音(浅草寺)に毎日参詣し、往復の途中江戸市民の報謝を受け、両岸に石壁を築いて雁歯橋を架けたことがわかります。 目黒川架橋の史実を物語る貴重な資料です。


大円寺の周辺図