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臨川寺|江東区清澄にある臨済宗妙心寺派寺院

臨川寺の概要

臨済宗妙心寺派寺院の臨川寺は、瑞甕山と号します。臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の仏頂禅師が、根本寺と鹿島神宮とで争っていた寺領について寺社奉行に訴え、その間の住まいとして草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、師の冷山和尚を開山として正徳3年(1713)創建したといいます。

臨川寺
臨川寺の概要
山号 瑞甕山
院号 -
寺号 臨川寺
住所 江東区清澄3-4-6
宗派 臨済宗妙心寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



臨川寺の縁起

臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の仏頂禅師が、根本寺と鹿島神宮とで争っていた寺領について寺社奉行に訴え、その間の住まいとして草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、師の冷山和尚を開山として正徳3年(1713)創建したといいます。

江東区教育委員会掲による臨川寺の縁起

臨済宗妙心寺派の瑞甕山臨川寺は、承応2年(1653)鹿島根本寺の冷山和尚が草庵を結んだことに始まり、その弟子の仏頂禅師が幕府に願い出て、正徳3年(1713)瑞甕山臨川寺という山号寺号が許可されました。延宝8年(1680)深川に移り住んだ松尾芭蕉は仏頂禅師と親交が厚く、度々参禅に通ったと伝えられています。以来、芭蕉ゆかりの寺として「玄武仏碑」をはじめ、「梅花仏碑」「墨直しの碑」「芭蕉由緒の碑」などの石碑が残されています。(江東区教育委員会掲示より)

「江東区の民俗深川編」による臨川寺の縁起

臨川寺
臨川寺初代の仏頂禅師は寛永一九年(1642)、常陸国鹿島郡白鳥村字札(現在の茨城県鹿島郡大洋村札)に生まれた。仏頂禅師は鹿島根本寺の冷山和尚に出家、延宝二年(1674)、根本寺二一世に就任。当時、根本寺の寺領一〇〇石のうち五〇石を鹿島神宮が取り上げてしまったため、禅師は鹿島神宮宮司を相手取り寺領返還を寺社奉行に訴え、そのときの江戸の住まいが臨川庵になる。この事件は天和二年(1682)禅師四一歳のときに根本寺の勝訴で解決、寺領が返還され、禅師は寺を頑極和尚に譲り、江戸の庵を寺院とするために幕府に願い出て、正徳三年(1713)に臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺と許可され、その二年後、正徳五年に生涯を閉じた。亡くなられた地は、仏頂禅師が親交厚かった徹通和尚が四五世であった霊巌寺の山庵であった。また、延宝二年に禅師は深川に居を構え、延宝八年(1680)に芭蕉と出会い、「師弟以上の関係に発展」し、芭蕉が桃青と名乗ったのは、禅師によるものだという(「臨川寺と芭蕉翁」)。
貞享四年(1687)に成立したとされる芭蕉の紀行文「鹿島詣」に、曽良と宗波を伴い、芭蕉庵から鹿島根本寺までの行程が記され、仏頂和尚の歌一首 「おりおりにかはらぬ空の月かげも ちぢのながめは雲のまにまに」と芭蕉らの句一三句が記されている。
臨川寺の境内に「玄武仏」碑が残され、「御府内寺社備考」によれば、玄武坊とは江戸の医師で美濃派の俳人神谷玄武坊であり、玄武坊は京都双林寺に各務支考により建てられた墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、墨直会を催したという。「御府内寺社備考」の臨川寺境内図には玄武碑以外に、碑(現芭蕉由緒の碑)、芭蕉碑(現墨直しの碑)、梅花仏 (各務支考)の碑がある。玄武碑以外は戦災のために破損し、昭和三七年に再建されたものである。なお、開基芭蕉木像は関東大震災で焼失し、昭和六三年に復元されている(「寺社めぐり21」)。(江東区の民俗深川編より)


臨川寺所蔵の文化財

  • 玄武仏碑(江東区登録文化財)

玄武仏碑

玄武仏碑
玄武仏は、宝暦から寛政(1751-1800)にかけて活躍した美濃派の俳人、神谷玄武仏のことです。小石川白山門前(文京区)に住み、俳号を俳仙堂・白山老人などと号しました。延亨(1744-47)のはじめ、各務支考により京都双林寺に建立されていた、芭蕉墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、毎年三月に墨直会を催したといわれています。また、梅花仏(各務支考)の碑も建てたといわれています。(江東区教育委員会掲示より)


臨川寺の周辺図


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