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大久寺|北区田端にある法華宗陣門流寺院

大久寺の概要

法華宗陣門流の大久寺は、教風山普光院と号します。文禄元年(1592)小田原に大久保相模守忠世が大久保一族の菩提を弔うため創建(宝珠山大久寺)しました。忠世の長子忠隣は、二代将軍秀忠の老中となったが本多正信と対立し、讒訴(ざんそ)によって改易となり、伊勢亀山藩石川氏に養子となっていた忠隣の二男忠総の石川家と、大久保家との両家の菩提寺となりました。寛永7年(1630)の江戸下谷車坂への移転の後、明治36年に当地に移転しました。

大久寺
大久寺の概要
山号 教風山
院号 普光院
寺号 大久寺
住所 北区田端3-21-1
宗派 法華宗陣門流
葬儀・墓地 -
備考 -



大久寺の縁起

大久寺は、文禄元年(1592)大久保相模守忠世が大久保一族の菩提を弔うため小田原に創建(宝珠山大久寺)しました。忠世の長子忠隣は、老中本多正信と対立して改易となったため、伊勢亀山藩石川氏に養子となっていた忠隣の二男忠総の石川家が檀主となり、石川家と大久保家との両家の菩提寺となったといいます。上台院日霊(寛文7年1667年寂)の代に小田原から江戸下谷車坂へ寛永元年(1624)移転、同年当地田端に隠居寺として上台寺を創建したといいます。明治37年に当地に移転、大正3年大久寺と上台寺を合併したといいます。

「北区史」による大久寺の縁起

大久寺(田端)
田端町一一三番地にある。法華宗。この寺は大久保家の菩提寺で、下谷区上車坂に寛永七年上台院日霊が建立したものと云われる。明治三十七年この地に移転し、大正三年に田端の上台寺を合併した。上台寺は日蓮宗で越後本成寺の末、普光山と号して、本尊は三宝、大久寺の隠居寺で、大久寺と同じに草創されたと伝えている。しかし日霊は明暦の人でやや時代が下るようにも思われる。一説に「おこわの山王」は上台寺の境内にあつて寛永元年草創と云われているが、上台寺がその後に建立されたものかどうか明かでない。(新編武蔵風土記稿より)

御府内寺社備考による大久寺の縁起

越後国長久山本成寺末下谷車坂下
宝聚山上台院大久寺(境内古跡御年貢地千百九十六坪)
当寺草創は、文禄年中(何年不詳)、開山自得院日英起立。檀主大久保七郎右衛門尉藤原忠世。相州小田原におゐて一寺を創して菩提寺とす。初ハ宝聚寺ト号す。後、大久保之一字を略して宝聚山大久寺と改ム。其後寛永七午年、小田原より当所江引移り候。中興開基土台院日霊起立。檀主石川主殿頭源忠惣(大久保相模守忠隣二男石川日向守家成養子)、大久保石川両家之菩提寺たり。其後大久保家改宗ニ依て、当時は石川家の菩提所ニ御座候。尤相州小田原に、矢張宝聚山大久寺と号して大久保家の菩提所当時も有之。当寺と同宗同末ニ御座候。
開山自得院日英、慶長十五庚成年十月二十日化。
開基檀主大久保七郎右衛門尉忠世、法名了源院殿日脱大居士。文禄三甲午年九月十五日化。
中興開山上台院日霊、寛文七丁末年二月十六日化。
中興檀主石川主殿頭忠総、法名忠総院殿日観大居士。慶安三庚寅年十二月廿四日卒。
本堂(中ノ間七間ニ六間半東西三尺ノ廊下付北方二間半ニ六間半)
本尊。三宝諸尊木像、鬼子母神、十羅剰女ノ像、祖師日蓮上人像
位牌所(間口三間奥行四間)
鐘楼(二間四方)洪鐘
鐘銘(中略)
三十番神社(二間四方)
三十番神像
額、得水書
日蓮碑(相州竜之口にて厄難之時暫腰をかけられ候石ニ御座候)
以上丙戌書上(御府内寺社備考より)

当地にあった上台寺について

(田端村)上台寺
日蓮宗越後蒲原郡薄曾根村本成寺末、普光山と號す、本尊三寶を安ず、開山上台院日霊寛永元年當寺を創し寛文七年二月十六日寂す。
山王社。(新編武蔵風土記稿より)


大久寺の周辺図




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