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金輪寺|北区岸町にある真言宗霊雲寺派寺院

金輪寺の概要

真言宗霊雲寺派の金輪寺は、王子山と号し、もと禅夷山東光院金輪寺の塔頭で藤本坊と称していました。旧金輪寺が神仏分離令により廃寺となった後、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15世正行大和尚が、藤本坊に金輪寺の寺号を継がせて、王子山金輪寺となりました。豊島八十八ヶ所霊場55番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場2番札所です。

金輪寺
金輪寺の概要
山号 王子山
院号 -
寺号 金輪寺
住所 北区岸町1-12-22
宗派 真言宗霊雲寺派
本尊 釈迦如来像と一字金輪仏頂尊像
葬儀・墓地 -
備考 豊島八十八ヶ所霊場55番札所、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場1番札所、北豊島三十三ヶ所霊場2番札所



金輪寺の縁起

金輪寺は、もと禅夷山東光院金輪寺の塔頭で藤本坊と称していました。旧金輪寺が神仏分離令により廃寺となった後、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15世正行大和尚が、藤本坊に金輪寺の寺号を継がせて、王子山金輪寺となったといいます。

北区文化財案内による金輪寺の縁起

現在の金輪寺は、真言宗霊雲寺派、釈迦如来像と一字金輪仏頂尊像を本尊としています。この寺は旧金輪寺藤本坊です。 旧金輪寺は、万延元年(1860)火災により焼失し、明治初めの神仏分離令によって廃寺になったといわれています。その後、明治36年、真言宗霊雲寺派総本山霊雲寺第15世正行大和尚が、地元檀信徒とはかり、残っていた藤本坊、弥陀坊のうち、藤本坊に金輪寺の名を継がせ、王子山金輪寺としたものです。 旧金輪寺には支坊が十二あったとする文献もありますが、明治36年の過去帳には、藤本坊、宝持坊、弥陀坊、薬師坊、池上坊、月蔵坊の名が挙げられており、六坊と考えるのが妥当と思われます。弥陀坊は、北区会館隣りの阿弥陀堂がそれです。(北区文化財案内より)

新編武蔵風土記稿による金輪寺の縁起

(王子村王子権現社別當)金輪寺
古義真言宗紀伊國高野山無量壽院末、禅夷山東光院と號す、京仁和寺の院家光明院を兼帯せり、相傳ふ康平年中源義家東征の時當所に於て金輪佛頂の法を修せしめ、凱旋の日甲冑を社頭に奉納し、且誅罰せる處の夷賊の魂の冥福を修せられ、迷走を禅楽に獲得せしめられしゆへ、山を禅夷と號し、寺を金輪と稱すと云、古は新義なりしが、慶長十四年僧宥養台命によりて王子兩社の別當に補せられしより今の宗に改む、其頃關東にて古義真言宗の棟梁五ヶ寺を定められ、御黒印を賜ふ、當寺其一なり、故に宥養を中興開山とす、此僧はもと相模國大磯宿地福寺の住僧たりしが、天正年中東照宮へ謁し奉り、慶長十三年十一月浄土法華宗論の時證人として論席へ出ることを命せらる、明る十四年伊奈備前守をもて江戸邊の古刹御尋ありしに、金輪寺は古き草創にて今無住なる由を答奉りしかは頓て命ありてここに住職す、其後紫衣を勅許せられ、又時々御城へ召れて御祈禱を命せられ、或は法義など御尋あり、同き十九年大坂御陣の時御祈禱札を彼地へ持参し奉りしかば、御感ありて伏見城に於て酒食を給はれりと云、是より先権大僧都朝宗當寺に住職せしこと、慶長九年社頭にかけし燈籠の銘に見えたり、本尊金輪佛頂は行基の作、又権現の本地佛薬師阿彌陀千手観音を客殿に安置す、慶弔の頃東照宮此邊御放鷹の時當寺へ成らせられ、つひて台徳院殿大猷印殿にも御立寄あり、寛永十一年宮社別當御造營の時、金輪寺佛殿の西續へ上段御座處をも建させられしより、御膳所となり、其後享保五年修理を加へられし頃、南の方崕の端へ別に御座所を建續けられ且其前に舞臺を設けられしとなり、此御舞臺より咫尺に飛鳥山を臨み眼下には王子川漲り流れて、石堰に激せる水聲潺湲として響き、渓間の茂樹春花秋楓の鑑美を具し最絶勝なり、其圖上に出す、安永五年凌明印殿日光御社参の時御小休所に命せらると云、當寺御膳所の節年内初度には五香散と稱せる、神薬及野菜一臺を献上すること恒例にて、時服白銀若干をかつけらるといへり。
寺寶
屏風一隻。狩野洞雲筆にて西王母を畫く、有徳院殿賜ひしものと云。
卓圍一鋪。文昭印殿御能装束にて造らしめ給ひ、月光院殿より御寄附ありしと云、裏書に従三位月光院殿正徳年中御奉納寶暦五年八世宥仙記之とあり。
金色佛舎利一粒。寶筐塔中に納む、扉に四天王の畫あり。
鹽山指出磯圖屏風一隻。古法眼元信の筆と云、千鳥の屏風とも稱す、
茶銚一口。高五寸共蓋にて五七切の模様あり、釻付は松子なり、口の直系三寸九部蘆屋の釜と云傳ふ。
五大尊畫像一幅。幅四尺許僧文覺の筆と云、以上四は北條氏直より住持宥養へ寄贈すと云傳ふ。
兩部大曼荼羅二幅。弘法の筆と云、能登國能登郡石動山天平寺より寄附なり、裏書に奉修覆金子其寄進于時天正二年甲戌九月吉日石動山天平権大僧都玄秀修善院と記す。
冷泉爲久卿和歌一幅。
飛鳥山十二景和歌十二葉。元文四年の詠歌にて共に短冊なり、別紙に眞字の跋を書して一箱に入る。
狩野友甫畫一幅。田家月出の圖なり、冷泉爲久卿住持宥衛に寄贈せらる、西三條大納言公福の筆にて、秋の田の露しくとこのいなむしろ、月のやととももりほりかなと、云讃より。
無量壽佛像一幅。明人の畫彩色あり、柘植傳左衛門知清寄附。
狩野尚信墨書十二幅(文面省略)
宋板大日經一部。大永中北條氏綱相州鎌倉極楽寺に寄附せしものなり、當寺への傳来は詳にせず、經の首に極楽寺真言院と云印を押し、又氏綱寄納の時押たる印文あり。
宋板一切經零本二冊。豆州走湯山般若印の蔵なりしを、文化年中院主周道より當寺に寄附すと云。
(以下寺寶省略)
御成門。寛永年中設けらると云。
御膳水。近き頃新に掘せられし井なり。
塔中。池上坊、月蔵坊、寶珠坊、藤本坊。(新編武蔵風土記稿より)


旧金輪寺について

現金輪寺の本寺であった旧金輪寺は、源義家が奥州征伐に際して金輪佛頂の法を修したことから禅夷山金輪寺と号していたといい、慶長14年(1609)徳川秀忠の命により大磯宿地福寺の僧宥養が住職として入寺、京都仁和寺光明院を兼帯していた他、王子神社王子稲荷神社の別当を命じられたといいます。関東古義真言宗5ヶ寺の一、御膳所にもなっていましたが、明治期の神仏分離令により廃寺となりました。

禅夷山東光院金輪寺(旧金輪寺)
旧金輪寺は、現在の王子郵便局周辺一帯にあった真言宗の大寺院でした。
康平年間(1058-1065)、源義家が東征に際し、この地で金輪仏頂の法を修せしめ、凱旋の日、甲冑を奉納して相手方戦死者の冥福を祈ったことに始まると伝えられています。慶長14年(1609)、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の命により、宥養上人が当寺無住であったこの寺院の住職に任じられ、王子権現(王子神社)、王子稲荷神社の別当となり、また、そのころ定められた関東古義派5ヶ寺のひとつにもなりました。
寛永11年(1634)、将軍の座所が設けられて以来御膳所となり、享保5年(1720)その修理の際に舞台を設け、また、安永5年(1776)徳川家冶日光社参の際の小休所に命ぜられました。寺宝としては「狩野洞雲筆屏風一雙」「狩野尚信墨画十二幅」「冷泉為久和歌一幅」「林信充作飛鳥山十二景詩一巻」「小田原衆所領役帳写一冊」など多数ありました。 宥養上人は、時々江戸城に召されて祈祷を命ぜられ、法儀などについて将軍の質問に答えたこともある僧侶でした。
また、旧金輪寺第5世宥相上人は、元禄5年(1692)、高野山に登山したとき、同高室院に蔵されていた「小田原衆所領役帳」の写本を作りました。これらはいずれも火災により焼失しましたが、宥相上人写本の写しが内閣文庫に現存しています。(北区文化財案内より)

金輪寺の周辺図




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