静勝寺|北区赤羽西にある曹洞宗寺院

猫の足あとによる東京都寺社案内

静勝寺|稲付城跡、北豊島三十三ヶ所

静勝寺の概要

曹洞宗寺院の静勝寺は、自得山と号します。静勝寺は、永正元年(1504年)太田道灌の禅の師匠雲綱が、彼の菩提を弔うため、太田道灌が築城した稲付城跡に道灌寺として創建したといいます。明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗が堂舎を建立し、道灌(香月院殿春宛静勝大居士)とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めたといいます。北豊島三十三ヶ所霊場4番札所です。

静勝寺
静勝寺の概要
山号 自得山
院号 -
寺号 静勝寺
住所 北区赤羽西1-21-17
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 稲付城跡



静勝寺の縁起

静勝寺は、永正元年(1504年)太田道灌の禅の師匠雲綱が、彼の菩提を弔うため、太田道灌が築城した稲付城跡に道灌寺として創建したといいます。明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗が堂舎を建立し、道灌(香月院殿春宛静勝大居士)とその父資清の法号に因んで寺号を自得山静勝寺と改めたといいます。

北区文化財案内による静勝寺の縁起

曹洞宗。本尊は釈迦如来像です。この寺は、稲付城跡として都の旧跡に指定されています(ただし、都の旧跡の範囲は、特に限定されたものではありません)。
稲付城跡は、この寺域から西にかけての丘陵一帯とされています。寺伝によれば、稲付城は太田道灌が築いたことになっていますが、まだ確証は得られていません。ただ、この地は、道灌歿後も太田氏の領地であり、寛永・寛政の家譜によれば、道灌の孫資高は岩渕の砦におり、永禄(1558-70)のころ資高の子新六郎康資は岩渕郷5ヶ村を所領としていた確証があるので、太田氏にゆかりのある城跡であることは確実であるといわれています。そして、仮に、道灌がこの城砦を築いたとしても、この付近は当時豊島氏の勢力下にあったので、少なくとも豊島氏を滅ぼした後であろうと推定されています。永禄6年(1563)、康資は小田原北条氏に背いて挙兵、国府台の合戦に敗れて安房に逃れますが、その後の稲付城についてはよくわかっていません。(北区文化財案内より)

新編武蔵風土記稿による静勝寺の縁起

(稲付村)静勝寺
禅宗曹洞派、入間郡越生龍穏寺末、自得山と號す、本尊釋迦外に辨財天を安す、是は境内亀ヶ池より出現せしと云長五寸許、開山雲綱永正十三年五月十五日寂す、寺傳に云、當所は太田左衛門大夫資長城壘を築きし舊趾なりしを滅亡の後雲綱禅刹を草創して道灌寺と號す、其後道灌六世の孫備中守資宗城蹟の地を皆寺に附し、道灌及其父備中守資清の法諡に取て自得山静勝寺と改む、今も境内地形高して門前の石階四十八級あり、亦境外西の方は低くして亀ヶ池鶴か堀など唱ふる所は、當時堀蹟なりと云、亦鐘銘に資長此地に於て城郭を築き城中池に臨て臺あり、静勝軒と名付など記せしは皆妄誕なり、殊に静勝軒は江戸城中の設なりし事、諸書に歴然たれば其餘の説の附會なるも推て知へし、姑く傳のままを録す。
寺寶。
竹杖一本。太田道灌所持のものなりと云、二股の竹にて長三尺、先の所は銅にて包めり其圖上に載す此餘道灌自筆の暮景集及ひ太田家譜等もありしか何頃にか失ひしと云。
開基堂。開基道灌の木像を安す、長二尺許其圖左の如し。
観音堂。十一面観音長一尺餘、越の泰澄の作にて道灌か守佛なりしと云。
樓門。正徳五年鑄造の鐘をかく當寺草創の始末、及資清資長の法號太田源六郎資康以下九人の名氏を鐫す。
五葉松。道灌手植の松といへり、根より五六尺上にて八方に枝葉茂りいとめつらしき形なり。(新編武蔵風土記稿より)


静勝寺所蔵の文化財

  • 稲付城跡(東京都指定有形文化財)
  • 木造太田道灌坐像附厨子1基(北区指定文化財)
  • 静勝寺除地検地絵図・古文書(北区指定文化財)

稲付城跡

稲付城跡は現在の静勝寺境内一帯にあたり、太田道灌が築城したといわれる戦国時代の砦跡です。
昭和62年(1987)、静勝寺南方面でおこなわれた発掘調査によって、永禄年間(1558~1569)末頃から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる城の空堀が確認されました。
また、静勝寺に伝存する貞享4年(1687)の「静勝寺除地検地絵図」には境内や付近の地形のほか、城の空堀の遺構が道として描かれており、稲付城の城塁配置を推察することができます。
この付近には鎌倉時代から岩淵の宿が、室町時代には関が設けられて街道上の主要地点をなしていました。稲付城は、その街道沿いで三方を丘陵に囲まれた土地に、江戸城と岩槻城を中継するための山城として築かれたのです。
道灌の死後、この城には孫の資高が居城し、後に後北条氏に仕えました。その子康資は後北条氏の家臣として岩淵郷5ケ村を所領しました。
明暦元年(1655)に道灌の子孫太田資宗は静勝寺の堂舎を建立し、道灌とその父資清(すけきよ)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めました。
その後も江戸時代を通じて太田氏は、太田道灌の木像を安置する道灌堂や厨子を造営するなど静勝寺を菩提寺としていました。

木造太田道灌坐像 附 厨子1基(平成元年1月25日指定)

右手の道灌堂の厨子内には、太田道灌の坐像が安置されています。像は、道灌の命日である7月26日にちなんで毎月26日に開扉されます。道灌堂は道灌の250回忌にあたる享保20年 (1735)7月に建立され、厨子は350回忌にあたる天保6年(1835)7月に製作されました。
像は頭を丸めており、道灌が剃髪した文明10年(1478)2月頃から同18年に没するまでの晩年の姿を映しています。体には胴服を着けており、左脇には刀一振が置かれています。正面を向き、右手で払子(ほっす)を執って、左手でその先を支え、左膝を立てて畳座に坐しています。像高は44.5センチ、構造は檜材の寄木造です。頭部は前後二材矧ぎで玉眼を嵌入し、差首としています。胎内に納入されていた銘札によると、元禄8年(1695)静勝寺第6世の風全恵薫によって造立され、以後、6回の修復が施されました。現在の彩色は、昭和62年(1987)4月に行われた修復によるものです。
像は道灌が没してから200年以上も後に造立されたものではありますが、その風貌を伝える唯一の木像として大変に貴重で、平成元年(1989)1月に北区の指定有形文化財に指定されました。
また北区飛鳥山博物館には、木造太田道灌坐像の複製品、関連資料の展示があります。

静勝寺除地検地絵図・古文書(平成5年10月25日指定)

静勝寺文書は、赤羽西にある静勝寺に伝存した文書群です。承応から昭和にいたる文書群のうち、近世文書68点が「静勝寺除地検地絵図・古文書」として平成5年に北区指定有形文化財に指定され、近代文書152点が「静勝寺近代文書」として平成4年に北区指定有形文化財に台帳搭載されています。
静勝寺境内一帯は、太田道灌が築城した戦国時代の砦、「稲付城」跡でした。区指定有形文化財のうち、貞享4年(1687)の静勝寺除地検地絵図は、城塁配置を知ることができる最も古い絵図で、境内や付近の地形、稲付城の空堀の遺構が描かれています。
この他、絵図成立に関連したものや、境内の堂舎普請や太田道灌顕彰のための活動、寺院財政の一端を示す文書なども伝存しており、当時の静勝寺の様子を知る上でも貴重な資料であるといえます。

静勝寺の周辺図