平塚神社|北区上中里の神社
平塚神社の概要
| 社号 | 平塚神社 |
|---|---|
| 祭神 | 八幡太郎源義家命、賀茂次郎源義命、新羅三郎源義光命、豊島近義命 |
| 境内社 | 稲荷神社 |
| 住所 | 北区上中里1-47-1 |
| 備考 | - |
平塚神社の由緒
平塚神社(旧平塚明神社)の略縁起
平塚神社の創立は平安後期 元永年中といわれている。八幡太郎源義家公が御兄弟とともに奥州征伐の凱旋途中にこの地を訪れ領主の豊島太郎近義に鎧一領を下賜された。近義は拝領した鎧を清浄な地に埋め塚を築き自分の城の鎮守とした。塚は甲冑塚とよばれ、高さがないために平塚ともよばれた。さらに近義は社殿を建てて義家・義綱・義光の三御兄弟を平塚三所大明神として祀り一族の繁栄を願った。
徳川の時代に、平塚郷の無官の盲物であった山川城官貞久は平塚明神に出世祈願をして江戸へ出たところ検校という高い地位を得て、将軍徳川義光の近習となり立身出生を果たした。その後、義光が病に倒れた際も山川城官は平塚明神に家光の病気平癒を祈願した。将軍の行基はたちどころに快癒し、神恩に感謝した山川城官は平塚明神社を修復した。家光自らも五十石の朱印地を平塚明神に寄進し、たびたび参詣に訪れた。(平塚神社内看板より)
平塚神社にある北区指定有形文化財
- 紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻
- 平塚神社文書
紙本著色平塚明神并別当城官寺縁起絵巻(平成3年2月22日指定)
原題は「武州豊島郡平塚郷上中里村平塚大明神の社并別当城官寺縁起絵巻」といい、上・中・下の3巻から構成されています。平塚明神の別当であった城官寺の中興住職とされる真惠を中心に製作され、元禄5年(1692)に完成しました。詞書の撰文・清書は真惠が行い、絵は狩野信良という人物が描いたことが確認されていますが、信良がどのような人物であるか、詳しいことはよくわかっていません。
絵巻では、江戸時代に山川城官貞久によって平塚明神・城官寺が再興され、寛永17年(1640)に幕府から50石の朱印地が寄進されるまでの経緯を平塚地域に残る伝承や歴史を織り込みながら描かれています。こうしたところから、地域の政治史的・文化史的な特徴を視覚的に理解する上で貴重な資料であるとして平成3年に北区指定有形文化財(歴史資料)に指定されました。
平塚神社文書(平成4年3月11日指定)
平塚神社文書は、上中里にある平塚神社に伝存した文書群です。これらのうち、延宝2年(1674)から昭和29年(1954)に至る77点が平成3年に北区指定有形文化財(古文書)に指定されましたが、その後の調査で判明した文書も含めると総数は約2700点余となります。
文化財に指定されている77点の文書群には、「平塚明神社別当城官寺」が作成・集積したものも含まれています。これは、明治初年の神仏分離政策以前に平塚神社が平塚明神社と呼ばれ、社領経営を別当の城官寺が行っていたためです。内容に江戸時代における社領の土地・年貢に関するもの、朱印状の写など朱印状に関するもの、明治政府による朱印取調べに関するものが多くみられるところから、当時の寺社と地域住民の関係や、幕府および明治政府との関係を理解する上で貴重な資料であるといえます。
平塚神社の周辺図
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平塚神社石門
平塚神社参道
境内の祠
稲荷神社
境内社
平塚神社神楽殿