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船方神社|十二天社、熊野権現信仰の強い北区堀船の神社

船方神社の概要

船方神社は、北区堀船にある神社です。船方神社は、神亀2年(725)創建したと伝えられ、江戸六阿弥陀伝承との関わりから帝釈天をはじめとする十二天伝承が当社にも残され十二天塚とも称されていたといいます。明治4年船方神社と改称しました。

船方神社
船方神社の概要
社号 船方神社
祭神 日本武尊、大国主命、少名彦命、猿田彦命
相殿 -
境内社 水神宮
住所 北区堀船4-13-28
祭日 -
備考 船方村鎮守



船方神社の由緒

船方神社は、神亀2年(725)創建したと伝えられ、江戸六阿弥陀伝承との関わりから帝釈天をはじめとする十二天伝承が当社にも残され十二天塚とも称されていたといいます。明治4年船方神社と改称しました。

新編武蔵風土記稿による船方神社の由緒

(船方村)十二天社
足立郡宮城村性翁寺の縁起に、神亀二年六月足立庄司宮城宰相の女、豊嶋左衛門に嫁せしか故有て荒川に入水せし時、彼に従ひたる侍女十二人主に殉して水に投せし骸を葬て十二天森と號す、今の船方村鎮守是なりと載たり、されど彼事績の疑ふへきことは性翁寺の條にも辨せし如くなれば元より信すへき事にはあらず、延命寺持。(東京都北区教育委員会より)

「東京都神社名鑑」による船方神社の由緒

創立は神亀二年(七二五)。当時、船方を占方といい、鎌倉時代、王子に豊島氏の居城あるにより、この地の発展にともない社殿を造営。中でも豊島清光の女足立姫以下十一人の侍女等の菩提を弔う十二天塚があり、明治以前は当社を十二天さまと称するにあたり、御祭神に不敬なりとて、船方神社と明治四年九月改称した。豊島氏時代武人の信仰厚い神社である。(「東京都神社名鑑」より)

「北区史」による船方神社の由緒

船方神社(堀船)
村社船方神社はもとの船方の鎮守で、祭神は日本武尊、相殿に少彦名命、猿田彦命を奉祀している。その創設は詳らかでないが、或は聖武天皇の神亀二年とも伝へられている。由緒記録は、嘉永六年正月の炎上によつて烏有に帰し、一切不明である。往昔は十二社と称したと云うのも見ても熊野権現と関係があつたことが察せられよう。明治十二年船方神社と改めた。境域七百二十三坪。(「北区史」より)


船方神社所蔵の文化財

  • 船方神社の十二天塚伝承

船方神社の十二天塚

船方村鎮守の船方神社は、江戸時代、鬱蒼とした森の中にあって十二天の森・十二天社とよばれました。本殿の右脇柵内にある十二天塚と彫った石碑は、次の伝承にもとづいて建てられたものです。
昔、この地域の荘園領主の豊島清光は子供に恵まれず、熊野権現の神々に祈願して一人の姫を授かります。成人して足立小輔に嫁がせましたが、心ない仕打ちを受けた姫は入間川(荒川)に身を投げ、十二人の侍女も姫を追って身を投げたという話が江戸六阿弥陀伝承のなかにあります。十二天とは、この十二人の侍女を指すと同時に帝釈天をはじめとする神々をいいます。これを密教では世の中を守る神々として非業の死をとげた人々を鎮魂するため塚などの祭壇にまつりました。
密教と深く結びついた熊野信仰もまた、十二所権現・十二社・熊野権現・王子宮・若宮と呼ぶ分霊が、平安時代末期から室町時代にかけて全国各地にまつられましたが、熊野信仰が盛んだった荒川流域の村々では悲しい侍女達の地域伝承と密教の十二天や熊野信仰とが結びつき、船方神社の十二天社としてまつられたものといえます。
なお、この伝承は江戸時代、江戸六阿弥陀参詣の札所寺院によって縁起化されました。しかし荒川に身を沈めたのは清光の姫でなく、足立庄司の姫だという伝承、姫の父親に実在しなかった人物の登場する点や伝承の時代設定とは異なる奈良時代の高僧行基が登場する点などのように付会性が強く、縁起の内容は寺院により少しずつ異なって伝えられています。(東京都北区教育委員会より)

船方神社の周辺図