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赤羽八幡神社|北区赤羽台の神社

赤羽八幡神社の概要

赤羽八幡神社は、北区赤羽台にある神社です。赤羽八幡神社の創建等は不詳ながら、延暦年中(782-806)坂上田村麻呂が東征の際に当地に陣を敷き祭神を勧請したのにはじまるといわれています。その後、源頼光、源頼政、太田資清(太田道灌の父)、太田道灌らが八幡神社維持に尽力したといい、慶安2年(1649)には徳川幕府から7石余の朱印を受けています。

赤羽八幡神社
赤羽八幡神社の概要
社号 赤羽八幡神社
祭神 品陀和気命、帯中津日子命、息長帯比売命
境内社 赤羽招魂社、古峯神社、北野神社、御嶽神社、阿夫利神社、大山神社、住吉神社、稲荷神社、疱瘡神社、
住所 北区赤羽台4-1-6
備考 赤羽村、下村、袋村、岩淵宿、稲付村の総鎮守



赤羽八幡神社の由緒

赤羽八幡神社の創建等は不詳ながら、延暦年中(782-806)坂上田村麻呂が東征の際に当地に陣を敷き祭神を勧請したのにはじまるといわれています。その後、源頼光、源頼政、太田資清(太田道灌の父)、太田道灌らが八幡神社維持に尽力したといい、慶安2年(1649)には徳川幕府から7石余の朱印を受けています。

新編武蔵風土記稿による赤羽八幡神社の由緒

(赤羽根村)八幡社
當村及下村・袋村・稲付村・岩淵宿等の惣鎮守とす、社領七石餘、慶安二年十月十七日御朱印を賜ふ、延暦年中の鎮座とのみ傳へて詳ならざれど、天文二十年太田新六郎康資が領寄附の状あり、其文左の如し。(書状文面省略)
是に據ても古き鎮座なること知へし、社地に東照宮を勧請し奉れり、其年代詳ならず。
社寶。
古鏡一面。白河法皇の御鏡なりと云、傳ふ裏面の圖左の如し。
古鏡一面。後鳥羽院の御鏡と云裏面の圖左の如し。
古面一枚。大山祇園命の面と稱す、春日の作と云、圖左に載此餘古面三枚有。
獅子頭一箇。是も春日の作と云傳ふ、其圖左の如し。
鋒一本。木にて作る長五尺許古物とみゆ。
末社。神明、春日、稲荷、第六天、香取、熊野、牛頭天王、諏訪、妙義権現、湯殿権現、頼政明神。
神主朝日安房。京都吉田家の配下なり、天文二十年の神領寄附状に、朝日與五右衛門と見えたれば、古き家なる事論なし。此與五右衛門を中興の神職也と稱す、是より第二代を大蔵常永と云、寛永五年九月五日卒す、今の安房まて九代に及へり。(新編武蔵風土記稿より)

「東京都神社名鑑」による赤羽八幡神社の由緒

延暦三年(七八五)大納言正三位征夷大将軍坂上田村麿東夷征伐の時、陣を八幡原にとり、当社三神を勧請、その後、長徳年間(九九五~九)鎮守府将軍源頼光朝臣再興し、久寿年間(一一五四-六)源頼政未だ兵庫頭たりし時、立願のことありて修造を加えられたが、年暦久遠にして社殿荒廃におよび、応永・正長の間(一三九四~一四二九)、太田左衛門大夫資清社領を寄進せられ、その後、太田左衛門大夫持資朝臣文明元年(一四六九)再建し、代々信仰浅からず、天文二十年(一五五一)太田新六郎康資再興の願主として社領を寄付したと伝えられる。大正十二年の関東大震災により社殿被害を受け、昭和六年改築竣工する。(「東京都神社名鑑」より)

北区神社めぐりによる赤羽八幡神社の由緒

平安初期、桓武天皇の御代に征夷大将軍・坂上田村麻呂が東夷征伐の折にこの地に陣を張り、八幡三神を勧請し武運長久を祈ったとされる。以後、「勝負の神」として鎌倉、室町、江戸時代と武士の信仰を集め、徳川将軍家からは代々御朱印を寄附された。(北区神社めぐりより)

北区教育委員会掲示による赤羽八幡神社の由緒

赤羽八幡神社と俗称され、祭神は品陀和気命(応神天皇)、帯中津日子命(仲哀天皇、日本書紀によれば応神天皇の父)、息長帯比売命(神功皇后、日本書紀によれば、仲哀天皇の皇后、応神天皇の母)です。江戸時代、この神社は岩淵郷5ヶ村(赤羽根村・下村・袋村・稲付村・岩淵宿)の総鎮守であり、現在もその地域の総鎮守となっています。 創建年代等は不詳ですが、伝説によれば、延暦年中(782-806)坂上田村麻呂(758-811、平安初期の武将。蝦夷地平定に大きな功績を残す。その一生は模範的武将として崇敬され、征夷大将軍の職名は永く部門の栄誉とされた)が東征の途次このあたりに陣を敷いてこの三神を勧請したのにはじまり、長徳年中(995-9)源頼光が社殿を再興し、久寿年間(1154-56)源頼政が修造を加え、応永(1394-1428)正長(1428-29)の頃、地頭であった太田資清(太田道灌の父)が社領として1貫文の地を寄進し、文明元年(1469)太田道灌が社殿を再建したといいます(岩淵町郷土誌)。
これはさておき、ここには太田新六郎康資(太田道灌の曾孫)の、天文20年(1551)の寄進状が伝えられており、その文面は、
岩淵之内赤場根八幡領之事、合壱貫文之所者。
右為社領如前々聞之候、且々私之修理おも加可申候、萬一自分を為本無沙汰に付而は可放取者也、仍而如件天文廿年辛亥12月28日 太田新六郎 康資 葉押
八幡 禰衹 朝日興五右衛門殿
となっています。従って、この神社は、室町時代末期以前からあったことは確実です。
また「新編武蔵風土記稿」に「赤羽根村・・・今ハ東叡山(寛永寺)及伝通院村内宝幢院八幡社領入曽ノ村ナリ」と記されており、慶安2年(1649)に七石余の朱印が付されていることから(岩淵町郷土誌)、江戸時代、この神社は、年貢・課役の免除を保証された領地を赤羽根村内に7石余有していたことも確実といえましょう。
現在の社殿は昭和6年改築されたものです。その向かって右側に神楽殿がありますが、これは絵馬堂を兼ね、絵馬が3枚納められています。
この神社が祀られている台地は、武蔵野台地の東北端にあたり、東は荒川沿岸の沖積地に、西は八幡ノ谷に面しています。そして、この境内からは縄文式土器・弥生式土器・土師器が発見されており、縄文時代中期・弥生時代後期・歴史時代の遺跡とされ、八幡神社遺跡と呼ばれていますが、学術調査はまだ行われていないようであり、詳細は不明です(東京都遺跡地図、東京都教育委員会)。
この神社より星美学園敷地(旧陸軍第一四段工兵第一大隊兵舎跡)、国立王子病院敷地(旧陸軍近衛工兵大隊兵舎跡)およびその周辺にかけての台上一帯(旧陸軍兵器支廠赤羽火薬庫、作業場等跡)は、八幡原と呼ばれ、坂上田村麻呂が陣を敷いたところという伝説があります。
明治5年、稲付に旧陸軍の火薬庫が設けられ、同20年、第一、近衛両工兵隊の移転があって以来、赤羽の台地には旧陸軍関係の施設の移転・拡張等が相次ぎ、赤羽は陸軍の町となっていきました。この神社の境内にある工一記念碑や赤羽招魂社(旧工兵第一大隊兵舎内にあった招魂社。現在は赤羽町の戦歿者の霊も合祀)などは、その当時の名残りです。また、ここから星美学園に至る坂は、第一・近衛両工兵隊にちなんで工兵坂とも師団坂とも呼ばれています。(北区教育委員会)


赤羽八幡神社所蔵の文化財

  • 赤羽八幡神社の絵馬額

赤羽八幡神社の絵馬額

この八幡の創設は不明ですが、一説に延暦年間(782-805)坂上田村麻呂が東征のおり戦勝を祈って当社を祭ったものといわれています。その後長徳年間(995-998)に源頼光が社殿を再興した後、文明元年(1469)太田道灌が社殿を再建したと伝えられています。いずれにしても古い神社であることはたしかのようで、絵馬堂内の数多くの絵馬額は有名です。

赤羽八幡神社の周辺図




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