半田稲荷神社|葛飾区東金町の神社

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半田稲荷神社|和銅四年創建の伝承、麻疹・疱瘡・安産祈願として信仰

半田稲荷神社の概要

半田稲荷神社は、葛飾区東金町にある稲荷神社です。半田稲荷神社は、和銅四年(711)の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社です。江戸期には麻疹と安産の神様として知られ、歌舞伎や狂言にも描かれています。

半田稲荷神社
半田稲荷神社の概要
社号 半田稲荷神社
祭神 倉稲魂神、佐田彦神、大宮女神
相殿 -
境内社 大土神社、水神社、稲荷十五神合社
例祭日 2月初午日
住所 葛飾区東金町4-28-22
備考 別当寺三宝院(廃寺)


半田稲荷神社の由緒

半田稲荷神社は、和銅四年(711)の創建とも永久年間(1113-17)の創建ともいわれる古社です。江戸期には麻疹と安産の神様として知られ、歌舞伎や狂言にも描かれています。

「葛飾区神社調査報告」による半田稲荷神社の由緒

「新編武蔵風土記稿」金町村の条に「半田稲荷社 本殿・拝殿・幣殿等備リテ顔荘厳ヲナセリ。縁起ノ略ニ、和銅四年此地ニ鎮座アリ。田畑ノ間ナルニ半田ノ号起レルヨシヲ記セリ。又当社ハニ郷半領半田村ニアリシ。享保年中、持来リテ祀りリシヨリ此号アリト、彼村及ヒ近村ノ伝ヘニノコレリ。其頃ヨリ殊ニ繁盛シ、今モ信スル者多シ。神体、図のノ如ク、又傍ニ本地仏十一面観音ヲ安セリ。神楽殿 末社 稲荷十五神合社 祭ル所ハ池端・国分・明星・要人・谷古田等ノ号アル稲荷ヲ祀り、各自幣ヲ置キ、此余狐穴ノ上ニモ小社ヲ建リ。別当三宝院 天台宗隅田村木母寺末。日照山三光寺ト号ス。開山金乗、元和元年ノ示寂ト云。本尊大日ヲ安セリ」
といい、古く和銅四年(711)の創としているが、社伝では永久年間(1113-17)という。二合半領の半田村(埼玉県三郷市)を当社の旧地とする説は、半田村が寛永年間(1624-44)の開墾であるから妥当ではない。
当社は享保(1716-36)の頃から、小児のはしか・疱瘡・安産の神として広く信仰された。「葛西志」金町村の条に、
半田稲荷社 当社は除地もゆるされず、年貢地に立る稲荷なれども、いかなるゆへにや、享保の頃よりはやり出して、近郷・江戸の人まで参詣群集し、講中など多く出来て、社頭荘厳に造営成しに、享保四年回祿の災にかかりて烏有となり、その後再建せしもの、今の社なりといへり。村内三宝院持。
といい、敬順の「十万庵遊歴雑記」金町村半田稲荷明神の条には、
1.同村(金町村)半田稲荷大明神は、光増寺の南凡三町にあり。別当は本社の右の方に僧房を構えて三宝院天台となづく。社は西北に向て大さ五間四面也。正一位半田稲荷大明神と認めし額は九皐の筆也。此九皐は広沢翁の実子にして、書を能し、筆意にまされるもありしかど、性質気随にして仁愛薄く、彼惇信・惇徳ほどには名も発せざりし故に、九皐が書今少なし。されば稲荷の社内はさして広きにもあらず、総て石灯籠の類も漸く享保年間のみあり。社檀の造営は善尽して、王子村の稲荷に似たれども、土地さむしく辺鄙なれば参詣至て稀に、別当処といへども空房のごとし。只目に附ものは、敷石の左なる榊の大樹のみぞ、当社の一品といふべし。彼江戸の方言に願忍と異名せし橋本町に住る店坊主が、近年能此やしろの名を売歩行て、疱瘡も軽しなど、名程にも似ず、増して事事しき利ある様子にも見請ず、その外総て屋敷構も鹿悪に聞に名高く、見て洵れるといふはこれらならん。
と記しているけれども、その信仰は衰えず、文化十年(1813)には、当社を舞台とした歌舞伎狂言「四季詠寄三大字」が中村座で上演され、坂東三津五郎の紛する願人坊主が人気を集め、長唄「半田稲荷」も作曲され、「柳樽」など古川柳にも当社のことが述べられている。願人坊主については四壁庵茂蔦の「わすれのこり」に「半田稲荷」と題し
赤き布にて頭をつつみ、赤き行衣を着、葛西金町半田の稲荷大明神と書し赤き小さきのぼりを持ち、片手に鈴をならし、葛西金町半田のいなり、疱瘡はしかもかるがるとかるがると云て来る。ほうさう前の子を持し家にて銭を遣れば、稲荷の真言を唱へ、その外めでたき祝ひ言を云て踊る。一文人形といふ物一つ置てゆく。
といい、喜田川守貞の「守貞漫稿」雑業の条には
半田行人 天保中初て行之、今は廃せり。其扮、京阪の金毘羅行人と同くして、白を紅に換るのみ。諸服必赤綿、手に赤綿の幟に半田稲荷大明神と筆せるを携へ、右手にれいをふり、疱瘡麻疹の軽を祈るに矯て、専ら諧謔踊躍す。
とある。社殿に関しては延享4年(1747)の焼失の後、「武江年表」天明3年(1783)7月の条に「葛西半田稲荷修復勧化御免にて、江戸中の船宿へ施財を募る」といい、幕末には尾張徳川家の加護厚く、弘化2年(1845)同家の発願による上棟式には、尾張中納言慶勝等参列の下に盛大に行われたことが、社蔵の「尾州家御祈願日記」「田安家御成次第記」に記されている。拝殿は天保15年(1866)に再建された。明治維新に際し、三宝院35世住持は復飾して神職となり、森山降暉と改名し、三宝院は廃寺となった。その後、明治10年、同15年に本殿・拝殿・神楽殿を修理し、昭和20年空襲によって社殿の一部と社務所が破壊され、戦後社務所を新築し、近年社殿を改修して面目を一新した。(葛飾区教育委員会 葛飾区神社調査報告より)

半田稲荷神社所蔵の文化財

  • 半田稲荷神社板絵類 12面 他2面(葛飾区指定文化財)
  • 半田稲荷神社神泉遺構(葛飾区登録文化財)
  • 半田稲荷神社狐一対(葛飾区登録文化財)

半田稲荷神社神泉遺構

半田稲荷神社は、正確な創建年代などは明らかになっていませんが、享保(1716~35)の頃には麻疹・疱瘡・安産に霊験ありとして広く信仰されていました。
この神泉遺構はかつて湧泉井戸でした。現在、湧泉は渇水し敷石も荒廃していますが、井戸枠には今も注連縄が掛けられ、旧来の形状がよく保存されています。
石柵の柱や袖石に刻まれているのは、新富町大新をはじめとする寄進者たちの名前です。なかには市川団十郎・尾上菊五郎など新富座の役者の名前も見え、当神社の繁栄を今に伝えています。(東京都葛飾区教育委員会掲示より)

半田稲荷神社狐一対

左右台座正面には「寛延元年戌辰年十一月吉日 海野・坂本・筒井氏」とありますが、側面には「天明八季(1788)戌申八月吉日 飯塚桃葉再興」とあります。台座のみの再興か、狐も含めて再興かは不明です。
向かって右の狐は左耳が一部補修され、左の狐はセメントで頭部が造られていますが、区内にある狐の石像としては現在のところ最古のものです。(葛飾区教育委員会掲示より)

半田稲荷神社の周辺図