猫の足あとによる大和市・座間市の寺院、神社など大和市・座間市の寺社案内 猫の足あとによる大和市・座間市の寺院、神社など大和市・座間市の寺社案内
猫の足あと

星谷寺。座間市入谷にある真言宗大覚寺派寺院

星谷寺の概要

真言宗大覚寺派の星谷寺は、妙法山持宝院と号します。行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として創建したといいます。坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、天正19年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領しています。関東以北では2番目に古いという梵鐘の他、星谷寺七不思議など古くからの言い伝えが数多くあります。

星谷寺
星谷寺の概要
山号 妙法山
院号 持宝院
寺号 星谷寺
本尊 正観音像
住所 座間市入谷3-3583
宗派 真言宗大覚寺派
葬儀・墓地 墓地区画受付、星谷寺清星殿を葬儀利用可能
備考 星の谷観音堂坂東三十三ヶ所8番、関東九十一薬師霊場18番



星谷寺の縁起

星谷寺は、行基菩薩が諸国教化の際当地で金光星の如く山谷に輝くのを見て、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営み星の谷観音堂として創建したといいます。坂東三十三ヶ所の第八番として崇敬を集め、天正19年には徳川家康より寺領2石の朱印状を拝領しています。

新編相模国風土記稿による星谷寺の縁起

星谷観音堂
坂東三十三ヶ所の一、第8番の札所なり。本尊正観音、行基の作、座像長1尺2寸。又薬師及不動、毘沙門の像を安ず。縁起に拠に行基此地に寓居の時、正観音の像を彫刻し、堂宇を営み本尊とす。其地は山壑幽逐にして清泉潺渓たり。星影水中に映じ、暗夜も白昼の如なれば土人星谷と呼り。後年回祿に罹りし後、住僧理現今の地を検點し堂宇を再建すと云ふ。旧地は当所の北方45町を隔てり。字本堂と号す。
小田原北条氏分国の頃、陸奥守氏照出陣の時境内を本陣とせしにより天正8年造作の料を充られし由、別当所蔵文書に見ゆ。曰、星谷観音堂、屋形様毎度之為御陣之間、於由井領、夏秋両度之以勧進上茸丼造作当年中可被致立為其被押御印判之旨、被仰出者也。仍如件、閏三月星谷寺別当一庵奉之。
白山社
養蚕神社
札堂。正観音及馬鳴菩薩を安ず。
鐘楼、嘉禄3年の古鐘を懸く。撞座一所にて尋常に替れり。銘曰、相州星谷寺、奉鋳鐘一口、嘉禄3年丁亥正月21日、大勧進金剛佛子秀亮、大檀越沙弥西願、大檀那源朝臣信綱、大工源吉国、勧進金剛弟子秀範。
仁王門、門外に境内不入の高札を建つ。
別当星谷寺。妙法山持寶院と号す。古義真言宗河原口村総持院末、行基と開山とし、理現と中興とす。客殿に虚空蔵行基作長1尺2寸、弘法大師の像を置く。寺領2石の御朱印は天正19年11月賜はれり。古文書五通を蔵す。一は前に載る加納一庵の奉書、一は鉢形北条氏の出す所、当寺境内不入の制札、一は元亀4年鉢形より当所奉行所へ与ふる所、於当郷星谷寺、千部之経、致読誦畢、従開白□見物聴衆之中、貴賎上下共、横合非分之者、有之者速可処非罪科云々。一は天正3年小田原北条氏の制札、一は小田原役の時豊太閤の与へし制札にて、星谷寺座間七箇村、地下人百姓等、急度可還住事、軍勢甲乙人、立帰百姓之家不可陣取事、対寺家門前之輩非分之儀申縣族有之者、可為一銭切并麦毛不可刈取事云々。
観音堂。
星井、白昼に井中星影見ゆと云ふ。(新編相模国風土記稿より)

境内掲示による星谷寺の縁起

聖武天皇の御宇行基菩薩が諸国教化の際絢爛たる金光星の如く山谷に輝くのを見、自ら聖観音の像を彫刻し、堂宇を営みました。花山法皇が関東巡幸の際この霊場に立ち寄られ以後世を挙げ名所旧跡と唄導し、坂東三十三ヶ所の第八番として巡拝者が日毎に多くなりました。
源頼朝公の信仰篤く徳川家康公からも帰依を受けました。当寺には日中星の映る「星の井戸」をはじめ「根下り紅葉の老木」嘉禄3年(1227)「の「撞座一つの梵鐘」(国重要文化財指定)「不断開花の桜」「咲き分けの椿」など星谷寺七不思議として今に伝えられています。(境内掲示より)


星谷寺所蔵の文化財

  • 嘉禄三年紀梵鐘(国重要文化財指定)
  • 宝篋印塔(座間市指定重要文化財)
  • 咲き分け散り椿(座間市指定重要文化財)

嘉禄三年紀梵鐘

嘉禄三年(1227)銘の本鐘は、全国現存の梵鐘の中で五十番目、関東以北では茨城県土浦市の等覚寺の建永年間(1206-1207)に次いで二番目に古く、鐘を撞く際の撞座が一箇所のみであることから、江戸時代より「奇鐘」として有名でした。優雅な平安時代の面影を残すとともに、鎌倉時代の特徴も備え、金工史上重要なものです。
銘文中の人名は全てが明らかではありませんが、「源朝臣信綱」は、有名な近江源氏の総本家を継いだ佐々木信綱であることが当市文化財保護委員会の調査によって明らかにされました。
信綱の祖父や父は、源氏に従っていたので、平氏が政権をにぎると一族は滋賀県下の所領を奪われ、現在の大和市南部あたりに住んでいた渋谷重国の許で二十年あまりすごしました。
やがて源頼朝が兵を挙げたとき、北条氏とともに最も活躍し、一族の子孫は滋賀県から中国地方にかけ勢力を誇りました。
信綱は、父祖の縁によって寄進者として名を連ねたと考えられます。本鐘は、「東鑑(あずまかがみ、「吾妻鑑」とも)」などの文献に見える佐々木氏の相模国在住を裏付ける物的資料として唯一のもので、日本史の上でも重要な資料といえます。(座間市教育委員会掲示より)


星谷寺の周辺図


大きな地図で見る