傳肇寺。小田原市城山にある浄土宗寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

傳肇寺。関東最初の念仏道場、足柄三十三観音霊場

傳肇寺の概要

浄土宗寺院の傳肇寺は、樹高山西照院と号します。傳肇寺は、正安2年(1300)に無極斎が創建、永徳年間(1381)に浄土宗列祖良肇和尚が、知恩院法脈を伝え樹高山西照院伝肇寺と号し、関東最初の念仏道場となったといいます。良肇和尚は、下総國横曾根村法性寺、飯沼弘経寺を開基した名僧です。芝増上寺九世・十世を輩出し出世の寺と称された他、北条氏直の帰依も受けたという名刹寺院です。また大正年間には北原白秋が当寺を頼り、数年間小田原に居住していました。足柄三十三観音霊場25番霊場です。

傳肇寺
傳肇寺の概要
山号 樹高山
院号 西照院
寺号 傳肇寺
本尊 阿弥陀如来像
住所 小田原市城山4-19-8
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 みみづく幼稚園



傳肇寺の縁起

傳肇寺は、正安2年(1300)に無極斎が創建、永徳年間(1381)に浄土宗列祖良肇和尚が、知恩院法脈を伝え樹高山西照院伝肇寺と号し、関東最初の念仏道場となったといいます。良肇和尚は、下総國横曾根村法性寺、飯沼弘経寺を開基した名僧です。芝増上寺九世・十世を輩出し出世の寺と称された他、北条氏直の帰依も受けたという名刹寺院です。

境内掲示による傳肇寺の縁起

伝肇寺は、正安2年(1300)に創建されたが永徳年間(1381)に至って浄土宗列祖良肇和尚が、知恩院法脈を伝え樹高山西照院伝肇寺と号して関東最初の念仏道場とした。三世道誉、四世感誉両和尚は後に、増上寺九世及び十世に出世した。また往時は紫衣勅許の際はこの寺の添状を要した。このため伝肇寺は出世の寺の別称があった。戦国天正期(1587)頃になると、後北条五代氏直は、本寺十世の底牛和尚に深く帰依し2万数千坪の寺領と朱印数通を与えている。
また寺の境内には、詩人北原白秋が住居し、みみづくの家を建てたりして有名である。
大正7年34才の北原白秋は、小笠原の生活を打切り小田原に移った。かれは自然と一体の生活を望んでいて本寺34世云隆和尚を頼り、境内に芭蕉好みの南方的な庵室、みみづくの家を建て、同15年東京に移転するまで、この住居で詩歌、論文、小説等を盛んに発表し文壇に華々しい活躍をした。特に小田原時代には「あわて床屋」「かやの木山」等の童謡を世に送り有名となったが、これは今日でも多くの人々に愛唱されている。北原白秋の生地は九州筑後の城下町柳川で、当時これに似た町並みを持つ城下町小田原は深く白秋の心をとらえていた。このためか小田原住居中の文学題材はほとんど附近の風物に印象を得ている。
白秋にとって小田原は、第二の故郷と言っても過言ではなかろう。白秋は、昭和17年11月2日に没したが
、この小田原を愛した詩人白秋の作品群は何時までも人々の心の中に光をともし続けるであろう。(境内掲示より)

小田原市教育委員会掲示による傳肇寺の縁起

白秋と伝肇寺(みみづく寺)
伝肇寺は鎌倉時代末期に創建され、戦国時代には小田原北条氏の帰依も受けた古刹です。北原白秋は、大正七年十月から大正十五年五月まで家族とともにここに住んでいました。
白秋は、大正八年五月、本堂の東側に、小さな家を建てました。
「丁度とぼけた木兎の顔そっくり」なので、「木兎の家」とも呼ばれていました。現在、伝肇寺は「みみづく寺」の名でも知られています。
翌年には、レンガ造り三階建ての洋館を建て、そこで、多くの童謡の執筆をしました。童謡「揺籠のうた」もその一つで、大正十年に妻菊子が初めての子どもを身ごもった頃に作られた作品です。当時、庭には、詩の中にも登場する枇杷の木があったそうです。
現在も境内に残る大きなかやの木は、童謡「かやの木山の」に登場しますが、木の下の小さな祠には、白秋が名付けた「かやの木地蔵」がおさめられています。
「木兎の家」の跡地に建つ「みみづく幼稚園」の園歌は、童謡「赤い鳥小鳥」です。おじいちゃんやおばあちゃんが小さい頃に歌った歌を、今の子どもたちも歌っています。(小田原市教育委員会掲示より)

新編相模国風土記稿による傳肇寺の縁起

(山角町)傳肇寺
浄土宗、京知恩院末、樹高山西照院と號す、正安二年無極斎と云る道心者、草庵を結び、閑居数年永徳中に至り、良肇就て一寺とす。肇は惣蓮社嘆誉英公と號す、下総國飯沼報恩寺にて剃髪、後年江戸三縁山(芝増上寺)開祖酉誉の秘訣を受、當山に在住中餘年、下総國横曾根村法性寺、及飯沼弘経寺を開基せり、永享十一年五月十二日卒。四世感誉存貞は、當寺にて剃髪し、後年住職となれり、俗称は北條の臣大道寺駿河守某の甥なり、終に江戸三縁山(芝増上寺)十世の住持職たり。按ずるに當寺古は筋違町大蓮寺の東封隣にあり、北隣陸奥守氏照邸第の邊なり、所蔵文書曰、奥州屋敷構要害之内へ不入而雖不叶地形候、寺内可鏧事、無心候付而、先打火事出来輿云、とても不鏧而不叶地輿云、此節申付候、堀よりも内之分之地形何間も候へ、於他所々望次第可渡置候、扨又掘よりも其寺之方者、勿論可為随意間如此間在寺尤候、堀端三尺置、木を成共、薮を成共植、寺をかこはるべく候、仍如件、三月三日傳肇寺、虎朱印。
天正十五年、朝倉右京進が采地の内を買得して、此地に移れり。又曰、傳肇寺就訴状、朝倉右京進以論書遂糺決畢、然而右京進知行之内、為寺屋敷買得、被改替、遅々に付而、以利米可請取旨雖申、證文無之上者、右京進申所不可有之旨、依仰状如件、天正十五年丁亥卯月廿八日、傳肇寺、評定衆上野介康定花押、虎朱印あり。
又曰、拙者私領大窪分之内、八貫百文之所、東は山角上野介方薮際、西者山中大炊助法薮際、北者新堀之はたを限、南は井神之森際、但古道を限而東之分、無事貢永代売渡申候、於後年棟別諸公事等、不可有之候、然者右之替代、如大法六増倍之積、兵粮雖百六十二俵候、江雪斎御指引付而、弐貫弐百五十文之兵粮指置、残所無未進請取申者也、仍後日状如件、丁亥六月二日、傳肇寺参、朝倉右京進花押、按ずるに四比之地名を以て考るに、今の寺地に能合り。
又曰、傳肇寺新地屋敷之儀、朝倉右京進知行之内、永代買得不可有相違、諸役令免許候、猶横合非分之族有之者、可有披露者也、仍如件、天正十六年戊子六月廿一日、傳肇寺、宗悦奉之、虎朱印。
明年六月、寺内の制札を出す、又曰、禁制、竹木伐取事、於寺内殺生之事、法事之砌喧嘩口論之事、以上。有背掟横合非分之輩有之者、可遂披露、可處厳科者也、仍如件、天正十六戊子六月二十一日、傳肇寺、宗悦奉之虎朱印。
又外に制札一通を蔵す。又曰、禁制、右軍勢甲乙人等、當所四壁之竹、剪取狼藉之族、堅令停止畢、若至違犯之輩者、可有披露、可處厳科旨、被仰出者、仍如件、卯月廿六日、傳肇寺、虎朱印。按ずるに年代詳ならず。
十八年二月、證人を當寺に偶宿せしむ。又曰、松田取次之證人衆、其寮舎共に此度一廻可被指置候、若狼藉非分之儀有之者、速可有披露候、仍如件、庚寅二月晦日、傳肇寺、江雪奉之、虎朱印。
本尊三尊阿弥陀及地蔵、長二尺一寸、行基作、を安ず。
地蔵堂、石蔵を置。
観音堂、千手観音を安ず。
稲荷社。熊野社。(新編相模国風土記稿より)


傳肇寺の周辺図


参考資料

  • 新編相模国風土記稿