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猫の足あと

法泉寺。川崎市多摩区にある天台宗寺院

法泉寺の概要

天台宗寺院の法泉寺は、大谷山吉祥院と号します。法泉寺は、稲毛三郎重成の妻(秋榮院妙林大姉)が建久6年(1195)に亡くなった際当地の南に埋葬、稲毛三郎重成(小澤入道)が建立した重成山極楽寺を起源とするといいます。源頼朝・北條政子も当寺へ参詣、源頼経より諸役免許を受けるなど、大いに繁栄したものの、稲毛三郎重成一族の滅亡に伴い衰退したといいます。戦国時代に入り、小田原北條家家臣が佐保田山城守某が天文2年(1533)に再興、極楽寺法泉寺の二寺を合せて一院とし、僧存心を住職に迎えて大谷山法泉寺吉祥院と号したといいます。多摩川三十三ヶ所観音霊場25番です。

法泉寺
法泉寺の概要
山号 大谷山
院号 吉祥院
寺号 法泉寺
住所 川崎市多摩区菅北浦5-5-1
宗派 天台宗
葬儀・墓地 -
備考 -



法泉寺の縁起

法泉寺は、稲毛三郎重成の妻(秋榮院妙林大姉)が建久6年(1195)に亡くなった際当地の南に埋葬、稲毛三郎重成(小澤入道)が建立した重成山極楽寺を起源とするといいます。源頼朝・北條政子も当寺へ参詣、源頼経より諸役免許を受けるなど、大いに繁栄したものの、稲毛三郎重成一族の滅亡に伴い衰退したといいます。戦国時代に入り、小田原北條家家臣が佐保田山城守某が天文2年(1533)に再興、極楽寺法泉寺の二寺を合せて一院とし、僧存心を住職に迎えて大谷山法泉寺吉祥院と号したといいます。

新編武蔵風土記稿による法泉寺の縁起

(菅村)法泉寺
字北浦耕地にあり、天台宗にて多磨郡深大寺村深大寺末、大谷山吉祥院と號す、縁起あり、その略に云、當所の領主稲毛三郎重成が室、建久六年七日寂せり、これを當山の南の尾に葬り、秋榮院妙林大姉と謚せり、重成が悲大方ならず、薙髪して永眞入道と號す、頓て堂坊を當所に營み重成山極楽寺と號せり、重成ここに籠居して念佛三昧他事なかりける、鎌倉諸士より使人雑色等たへず訪れける。この時假小屋を立し所を小屋所と云へり、同八年三月頼朝御臺所とともに信州善光寺へ詣でられ、當山へも立より給ひし時、當國高麗郡にて香燈佛餉料を寄附せらるるの状を賜へり、そのとき多磨川のほとりに砂を盛て執筆を居き、諸侍の舊到を定めらる。其跡を帳塚と云、亦一の役所をかまへ此所にて諸士へ将軍の命を傳ふ、そこをば演命場と號す、此夜山の巽の方に雑色の雲たなびきけり、人あやしんで巽星ならんと云、御臺所甚畏れ給ひしに、時の住僧大顕云、これ祥雲なり、諸天の影向なるべしと、畠山重忠もこれを見てしかるべし、これ星宿にあらず、天樓臺の現るなるべしと。これより彼山の寺尾を天樓臺と呼べり、明る九年極月いつか重成入道相州相模川の橋を架す、これも亦亡室妙林大姉追福の爲とぞ聞えける。正治元年正月十三日頼朝他界、嘉禄元年七月十三日二位尼公逝去、この兩度とも當院にて法會行はる、其後寛喜元年七月十三日将軍頼朝より諸役免許の御教書を賜はる、其後寛喜元年七月十三日将軍頼経より諸役免許の御教書を賜はる、その後堂宇破壊せしかば寛元元年頼嗣の母堂大宮殿大旦那として再興ありて大伽藍を作り、輪奐美を盡し當山の繁榮ここに極まれり。この後城主小澤入道物故し、一族ことごとく亡命して、おのがさまざまに分離す、故に當寺も從て衰廢せり、この後元弘三年五日武蔵野合戦のとき、兵火の爲に焼亡す、寶物以下みな烏有せり、遙の後小田原家人佐保田山城守某主人氏康に訴へて、天文二年七月再興し、本堂以下ことごとく修理し、且山林竹木永免除の書を賜へり、此時かの山城入道施主として、二菩薩十二神を彫刻せり、山門佛頂の尾の住侶存心を住主とす、此時極楽寺法泉寺の二寺を合せて一院とし、岳の鼻に於て社上に院を起し、本堂に醫王を安じ、大谷山法泉寺吉祥院と號す。ここに於て存心を當院の中興とす、これより爾来天正十八年、瀧山城攻の時北國勢の爲に焼れて悉く烏有となる、この後十方の檀那の力を募て再興せしかど、昔にくらぶれば纔に形ばかりを存せり、御入國の後地頭中根壹岐守正致、かかる舊寺の衰廢をいたみ、延寶七年十月水陸の田若干を寄附せり、この後御料所となりて後も、先規にまかせて免ぜらると云々、今は客殿七間半に五間東向なり、本尊彌陀をやすんぜり。(新編武蔵風土記稿より)


法泉寺の周辺図