川崎大師平間寺。川崎市川崎区にある真言宗智山派寺院

猫の足あとによる神奈川県寺社案内

川崎大師平間寺。真言宗智山派の大本山、関東三十六不動、関東八十八ヶ所霊場

川崎大師平間寺の概要

真言宗智山派寺院の平間寺は、金剛山金乗院と号し、俗に川崎大師・厄除弘法大師と称される真言宗智山派の大本山です。当地付近に住んでいた平間兼乗が川崎市夜光沖合いの海で拾い上げた弘法大師像をもとに、尊賢上人が開基となり大冶3年(1128)創建したと伝えられます。弘法大師像は、下平間村の稱名寺が真言宗から一向宗(浄土真宗)に宗旨を改めた際、多摩川に流されたものとも伝えられています。永治元年(1141)には近衛天皇により勅願寺の宣旨を受けた他、江戸時代には、将軍家より寺領6石の朱印状を拝領、現在に至るまで多くの縁日等を催し、賑わっています。関東三十六不動7番、武相不動尊霊場初番、関東八十八ヶ所霊場特番、玉川八十八ヶ所霊場初番、東海三十三観音霊場33番、東国八十八ヵ所霊場初番となっています。

川崎大師平間寺
川崎大師平間寺の概要
山号 金剛山
院号 金乗院
寺号 平間寺
本尊 弘法大師空海上人像
住所 川崎市川崎区大師町4-48
宗派 真言宗智山派
葬儀・墓地 -
備考 関東三十六不動7番、関東八十八ヶ所霊場特番、玉川八十八ヶ所霊場初番、東海三十三観音霊場33番、武相不動尊霊場初番



川崎大師平間寺の境内

川崎大師平間寺の境内図

大山門(遍照門)

この大山門は昭和52年(1977)、当山開創850年記念として建立されました。
山門は堂塔、伽藍を囲む浄域結界の総門であり、この大山門の四方には、仏法の守護尊として京都東寺の国宝・四天王像を模刻、鋳造した持国天(東方)、増長天(南方)、広目天(西方)、多聞天(北方)が奉安されています。
現在楼上には、信徒各位からの写経・写仏が納められています。(境内掲示より)

大本堂

川崎大師平間寺の大本堂には、本尊厄除弘法大師像を中心に、不動明王、愛染明王、稚児大師、救世観音、金剛界曼陀羅、胎蔵界曼陀羅が奉安されており、関東八十八ヶ所霊場特番、玉川八十八ヶ所霊場初番、東海三十三観音霊場33番となっています。

不動堂

川崎大師平間寺の不動堂は関東三十六不動7番、武相不動尊霊場初番となっています。

当山の不動堂は、御本尊に千葉成田山新勝寺不動明王の御分からだをおまつりしています。
明治23年に建てられた以前の建物は典雅なお堂でありましたが、昭和20年4月戦災によって焼失しました。現在のお堂は、昭和39年4月に再建されたものです。武相二十八不動尊の第一番札所として信仰をあつめています。
ご縁日、毎月28日午後3時、不動尊大護摩供奉修(境内掲示より)

八角五重塔(中興塔)

弘法大師1550年御遠忌と当山吉例10年目毎の大開帳奉修を記念して現貫首により発願され、十方有縁檀信徒の信助によって、昭和59年に落慶されました。
この八角五重塔の地階には、釈迦如来をご本尊とする慰霊堂、一層には金剛界、五智如来と真言八祖がおまつりされています。
二層は金剛界及び胎蔵界の石彫梵字曼陀羅とともに、中央に恵果阿闍梨(中国の高僧・弘法大師の師僧)と、向って右に弘法大師(空海上人)、左に真言宗中興の祖、興教大師(覚鑁上人)のご尊像をそれぞれおまつりしています。
塔上の相輪の下の露盤内には、翡翠の金剛界大日如来像が納められています。
恵果阿闍梨(746-805)
弘法大師(774-835)
興教大師(1095-1143)(境内掲示より)

鐘楼堂

鐘楼堂は寛政元年(1789)正月、当山三十三世隆範代に創立されたもので、本堂の前に在ったものを大正12年の震災で倒壊した為、昭和5年に現在の所に移転され、さらに昭和20年戦災により焼失、昭和23年に再建されたものである。鐘(重要美術品)は延徳3年に鋳造されたものであったが、其の後寛政7年(1795)5月、当山三十三世隆範の代に再鋳されている。(境内掲示より)


川崎大師平間寺の縁起

川崎大師平間寺は、当地付近に住んでいた平間兼乗が川崎市夜光沖合いの海で拾い上げた弘法大師像をもとに、尊賢上人が開基となり大冶3年(1128)創建したと伝えられます。弘法大師像は、下平間村の稱名寺が真言宗から一向宗(浄土真宗)に宗旨を改めた際、多摩川に流されたものとも伝えられています。永治元年(1141)には近衛天皇により勅願寺の宣旨を受けています。江戸時代には、将軍家より寺領6石の朱印状を拝領、現在に至るまで多くの縁日等を催しています。

境内掲示による川崎大師平間寺の縁起

平安時代、第75代崇徳上皇の御代(1123-1141)平間兼豊・兼乗という武士の親子が無実の罪により生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、ようやくこの川崎の地に住みつき、漁師を仕事として貧しい暮らしを立てていました。
兼乗は深く仏法に帰依し、特に弘法大師を崇信していました。当時42歳の厄年に当りましたので、日夜厄除けの祈願を続けていました。
ある夜、一人の高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしこと、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。以来未だ有縁の人を得ず。いま、汝速やかに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が厄災変じて福となり所願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は翌朝直ちに海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一体の木像が引き揚げられました。それは大師の尊いお像でした。この地は、「夜光町」と名づけられ大師の浜の古い歴史を今に伝えています。兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕に香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途中ここ兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、大冶3年(1128)一寺を建立しました。そして兼乗の姓・平間をもって平間寺と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが今日の大本山川崎大師平間寺の由来であります。
兼乗は、この信仰のおかげで、晴天白日の身となり晴れてふたたび尾張の国に帰任しました。平間寺の開基である尊賢上人は、保延2年(1136)弘法大師を篤く信仰されておられた鳥羽上皇のお后・美福門院に平間寺開山の縁起を申し上げ、災厄消除と皇子降誕の祈祷を修行されました。その霊験たちまちに現れ、まもなく皇子(のちの第76代近衛天皇)がお生まれになりました。これ、まったく厄除弘法大師のご霊徳と美福門院も殊のほかお喜びになりました。
このことを上皇にご奉告申し上げ、永治元年(1141)近衛天皇のお名によって、平間寺に、勅願寺のご宣旨が下されました。
爾来、皇室のご尊信も深く、以降、徳川将軍家の帰依も篤く厄除弘法大師のご霊徳は、いよいよ天下にあまねく関東厄除・第一霊場として善男善女の参詣・相ついで跡をたたず、現在に至っております。(境内掲示より)

新編武蔵風土記稿による川崎大師平間寺の縁起

(川中島村)弘法大師堂
村の艮の方稲荷神殿の境にあり。御朱印6石の地を附せらる。大師は木の坐像にして長2尺2寸。大師の自ら作る所の像なりと云。縁起に此像は大冶年中平間某と云もの、常にすなとることを業として此浦に住り。もと尾張の生れにて、彼国にても年ごろ漁業を業とせしに、ある夜不思議の夢をみし後、大師の像をかの海濱に得たり。故に自から負ひて我家に帰り、そのまま一宇を建立し平間寺と号せりと、寺伝に云。ざれど同郡下平間村の稱名寺、古は真言宗なりしが、僧如信の代に至り改宗して親鸞の徒となり、かの弟子に従ひ夫より一向宗の寺となれり。先代より持傳ふる所の大師の像は、改宗の後多摩川へ流せしを、幸に漁人拾ひあげて今の地へ草堂をたて、かのありしところの村名を取て平間寺と唱へしと稱名寺に云傳へり。二説なれば、暫く記し置のみ。本堂3間に7間、門南向なり。
鐘楼。本堂に向て左にあり。
什物。
不動尊像一体。長3尺5寸坐像にして行基菩薩の作と云。二童子の像も同作にて同長の立像なり。
愛染像一体。長4尺坐像にして作しれず。
天神像一体。長8寸の立像なり。菅丞相大宰府閑居の時彫刻せし所なりと。
四天像各体。長7寸許、恵心の作なりと云。
大黒像一体。長1尺5寸の立像なり。
稲荷像一体。長9寸の立像なり。
五大尊像各体。長6尺6寸の坐像なり。いづれも弘法大師作なりと云傳ふ。
弥陀経。紺紙金泥にて長5寸7分弘法大師直筆なりと云。
六字名号。長3尺2寸、これも同筆なりと云。
心経二巻。是も同じ大師の筆なりと云。
弁財天像。長7寸6分の坐像なり。淳和天王の御宇天長7年弘法大師、相州江の島において百日の間一萬坐の護摩を修せし時、其灰にて一千体の像をつかねし其一なりと云傳ふ。
不動像。長1尺4寸の立像なり。智證大師の作と云。
不動像。これも立像にして長2尺2寸、伝教大師の作なり。
簾の名号。建禮門院御坐の間に六字の名号を掛をかれしに、かたはらなる御簾に文字のかたちさだかにうつりしにより名付しと云。故有て当寺に傳へり。
田螺石。大師常陸国筑波へ修行の折から、道にて田螺多く生て水田のさゝはりとなりしかば、大師深く憐て田螺の内の親ともをぼしきものを取、法力を以此石中に封籠し、後は災なしといへり。大さ1尺5寸5分四方なり。
芋石。横5寸8分許堅3寸ほどあり。其形あだかもいくいもの如し。これも大師修行の時故ありて芋を斬りて石とせしものなりといへり。すべて覚束なきものなり。
別当平間寺。
大師堂に向って右にあり。金剛山金乗院と号す。当寺古は荏原郡高畑村宝幢院の末寺なりしが、文化2年、願により離末して京醍醐三寶院の直末になれり。開山は尊賢と云。康冶2年4月21日寂す。古き御朱印もありしにや、今は傳へず。ただ慶安元年10月24日大猷院殿より御寄附の御朱印を蔵せり。其文に弘法大師堂領稲荷明神領として、当村の内6石の地先規の如く御寄附のこと。及寺中諸役免除せらるる由を載す。当御代に至り寛政8年10月27日始て当寺へ成せられ、其後文化10年9月27日成せられしときは御膳所なり。(新編武蔵風土記稿より)

川崎市史による川崎大師平間寺の縁起

川崎大師
平間寺は川崎大師として有名であるが、史料が少なく歴史的変遷の詳細は不明である。縁起は二つある。源義家の家来の血を引く平間兼乗という漁師が夢告により、海中より弘法大師像を引きあげた。その年が大治三年(一二一八)で、その像を拝んだ僧尊賢が天承元年(一一三一)に平間寺を開いたとする。平間兼乗が弘法大師像を引き上げたのが四二歳の厄年であったが、この信仰により讒訴の汚名から救われたといわれ、厄除大師として信仰するようになったという。もう一つはかつては真言宗であった下平間の稱名寺が浄土真宗に改宗したのを機に弘法大師像を多摩川へ流してしまったのを、下流の漁師がこれを拾い上げて一宇を建立したというものである。いずれの縁起も平間寺の名の由来を説くものであるが、確とした証拠はない。碑文としては、平間寺中書院にある寛永五年(一六二八)の弘法大師名号碑およぴ寛文三年(一六六三)の道標がある。川崎大師の信仰は江戸中期より盛んになり寛政年聞には将軍徳川家斉が何度か参詣し、出開帳も行われるようになり、江戸からの手ごろな行楽地として有名になっていく。(川崎市史より)


川崎大師平間寺の子院

川崎大師平間寺所蔵の文化財

  • 絹本着色弘法大師像(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色毘沙門天像(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色不動明王像(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色愛染明王像(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色両界曼荼羅図(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色地蔵菩薩・二童子図及び地蔵菩薩図(市重要歴史記念物)
  • 2曲1隻・紙本金地着色秋草図屏風(市重要歴史記念物)
  • 絹本着色日輪大師像(市重要歴史記念物)
  • 六字名号塔(市重要歴史記念物)
  • 弘法大師道標(市重要歴史記念物)
  • 宝暦6年(1756)銘宝篋印塔
  • 天保10年(1839)銘道普請完成記念碑

川崎市教育委員会掲示による川崎大師平間寺の文化財

平間寺は、真言宗智山派の大本山で、金剛山金乗院平間寺と称し、厄除弘法大師または川崎大師として、音から庶民の厚い信仰をあつめています。特に江戸時代中頃からは、徳川将軍家でも厄除けに参詣していました。
創建は、平安時代・大治3年(1128)、この地で漁労を業としていた平間兼乗が、夢まくらに高僧のお告げを受けて海中より弘法大師の御像を引きあげ、それを高野山の尊賢上人が開基供養したのにはじまるといわれています。
当寺には歴史や信仰を物語る数多くの文化財がのこされています。それらの中から川崎市教育委員会では、絹本着色・毘沙門天像、絹本着色・地蔵菩薩図(ともに鎌倉時代)、絹本着色・弘法大師像(室町時代)、絹本着色・日輪大師像(江戸時代)など二十件のすぐれた絵画を川崎市重要歴史記念物に指定しました。
また、境内に据えられている弘法大師道標、六字名号塔(ともに江戸時代)は、川崎大師の庶民信仰を今に伝える貴重な石造物として、川崎市主要歴史記念物・同郷土資料に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)

弘法大師道標

厄除け大師として知られている川崎大師・平間寺は、大ぜいの参詣者でたいへんな賑わいをみせることで有名です。
信仰と行楽をかねた川崎大師への参詣は、江戸時代初期からたいへん盛んになりました。そこで江戸からの参詣者のために、寛文3年(1663)に本道標が建てられました。道標は、高さが171cmと大形で、しかも力強い書体で「従是弘法大師江之道」と刻まれております。
現在は境内に建っていますが、当初は、川崎宿下手の土居(川崎宿の多摩川寄り入口)付近にありました。江戸からの参詣者は、六郷川(多摩川)を渡って船場町(現在は多摩川の河床)にいたり、本道標の指示に従って左折し、大師道へと歩んでいきました。
本道標は、菱川師宣の「東海道分間絵図」(元禄3年・1690刊)や「川崎宿船場町絵図」(明和2年・1765作図)、さらに享和年間(1801-1804)に道中奉行所が作成した「東海道分間延絵図」の中にも描かれており、歴史的にも川崎宿を代表する貴重な石造の記念物です。
川崎市教育委員会では、昭和63年11月29日、本道標を川崎市重要歴史記念物に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)

六字名号塔

阿弥陀如来への信仰をあらわす「南無阿弥陀仏」の六文字を、名号とか六字名号と呼んでいます。この名号を石などに刻んだものが六字名号塔(名号塔)で、功徳の祈念や所願が成就した時の記念碑などとして建てられました。
川崎大師平間寺にある六字名号塔は、江戸時代の寛永5年(1628)に建てられたものです。
その由来について、江戸時代の仮名草子の作者浅井了意は、「東海道名所記」(万冶元年・1658刊)で次のように書いています。
川崎大師に信仰厚かった江戸京橋の商人紀国屋作内が、川崎大師への参詣の帰りに六郷大橋で一対の筆を拾い、家へ持ち帰りました。すると字の書けなかった彼が、その筆で、にわかに六字の名号をすらすらと書けるようになりました。喜んだ彼は、これを石塔に彫り、大師河原に建てました。
このように川崎大師への信仰は、江戸時代初期から広く定着していたことがわかります。
その後この六字名号塔は、江戸の文人が書いた「十万庵遊歴雑記」(文化11年・1814刊)や「調布日記」(文化6年1809刊)などにも登場しており、庶民信仰の歴史を知るうえで貴重な価値をもっております。
川崎市教育委員会は、昭和63年11月29日、本六字名号塔を川崎市重要郷土資料に指定しました。(川崎市教育委員会掲示より)


川崎大師平間寺の周辺図


参考資料

  • 新編武蔵風土記稿