本覚寺。鎌倉市小町にある日蓮宗寺院、東身延、日蓮宗由緒寺院

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本覚寺。東身延、日蓮宗由緒寺院、鎌倉・江の島七福神

本覚寺の概要

日蓮宗寺院の本覚寺は、妙厳山と号し、東身延とも称される日蓮宗由緒寺院です。鎌倉公方・足利持氏が開基、日出上人が開山となって永享8年(1436)当地に創建、後北条氏歴代の外護を受け、徳川家康より朱印状を受領しています。当地は、鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が夷堂を創建したとされ、日蓮が佐渡配流後より鎌倉に戻り、布教を再開した際の居所ともなっていたといいます。夷堂は、鎌倉・江の島七福神の一つとなっています。

本覚寺
本覚寺の概要
山号 妙厳山
院号 -
寺号 本覚寺
本尊 釈迦三尊
住所 鎌倉市小町1-12-12
宗派 日蓮宗
縁日 初えびす:正月、人形供養:10月
葬儀・墓地 -
備考 日蓮宗由緒寺院、鎌倉・江の島七福神の夷様



本覚寺の縁起

本覚寺は、鎌倉公方・足利持氏が開基、日出上人が開山となって永享8年(1436)当地に創建したといいます。当寺二世住職日朝上人(後に身延山久遠寺十一世)が、身延山から日蓮聖人の骨を分けたので「東身延」とも称されています。後北条氏歴代の外護を受け、徳川家康より朱印状を受領しています。当地は、鎌倉幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が夷堂を創建したとされ、日蓮が佐渡配流後より鎌倉に戻り、布教を再開した際の居所ともなっていたといいます。

新編相模国風土記稿による本覚寺の縁起

本覚寺
妙厳山と号す。法華宗身延山久遠寺末。永享年中の草創にして開山を日出(武州の人なり始は是性坊と号し、天台宗なりしが、身延山日延に帰依して改宗し、一乗坊と称す)と云ふ。当寺は東国法華宗の小本寺なり。日朝(当寺二世、本寺十一世なり)身延山に在し時当寺三世日燿へ贈りし書に、総して東三十三箇国別して関八州の僧録に任じ置事に候へば萬端制法肝要に候云々、とありし由鎌倉志に見えたり、今此文書傳はらず。
永正11年12月、17年2月北条家より陣僧飛脚諸公事、停止の制札を与ふ。所蔵文書曰、制札本覚寺右当寺へ陣僧飛脚諸公事、堅令停止畢、若横合之儀、申懸族有之者、速可処罪科者也仍如件、永正17年庚辰2月25日、早雲の畢押、又曰、制札、右従代官外自余方、於諸役申輩者相構而代官へ、可有御届候、当寺者被諸役停止之間、若有御用者、以判形可申定候者仍如件、永正17庚辰2月25日、本覚寺、盛昌華押。
天文11年7月北条氏康又同事の制札を出せり。制札本覚寺・右当寺陣僧飛脚諸公事、堅令停止畢、若横合之儀、申懸者有者、速可処罪科者也、仍如件、天文11壬寅7月2日、氏康の華押あり。
[天文]16年10月敷地2貫200文を寄附す。敷地之事、2貫200文所、任庚辰歳之落着、令寄進者也仍如件、天文16丁未10月12日、本覚寺、虎朱印、按ずるに庚辰は永正17年なるべし。
同22年11月棟別銭を免許せらる。棟別銭先年半分赦免、残所143文、重而当年令免許候状如件、天文22年癸丑11月15日、鎌倉本覚寺、御朱印。
弘治3年11月北条氏康廰南の戦に使僧を捧げしかば其賞として寺領を附せらる。一、鎌倉本覚寺為寺領、拾貫目之畠出之事、但自彼藤前、可請取事、一、於上総寺領有之等、一所出之事、右去年長南へ、致使走廻候筋目に付而、令落去候状如件、弘治3年丁巳霜月11日、本覚寺役坊主玉林、氏康華押。
又茲月寺中諸役及び山内條々の掟書を出す。掟條々。一、棟別之事。一、飛脚陣僧之事、至干渉弥小僧等、細事候共、不可申付候事。一、竹木剪取事。以上。右本覚寺々中諸役、永代令免許候。此外於末寺、悪僧出来、背本寺之掟者有之者、遂披露可被処罪科候。状如件、弘治3年丁巳霜月12日、鎌倉本覚寺玉林。虎朱印。
天正7年6月北条氏政より改て先規の如く、諸役停止の證状を与ふ。先御代以来、敵地エ使被走廻誠感悦候、然者於鎌倉、自大聖院殿、御寄進之下地、弥不可有相違、其外棟別、飛脚僧以下、如先規諸役令停止畢、就中寺中、竹木剪取狼藉致懸者有之者、何時モ無遠慮、可有披露、可処厳科候、猶如記右、以忠節之筋目、改申出状如件、天正7年己卯6月16日、本覚寺、氏政華押。
又大道寺駿河守政繁證状を贈りし事あり。所蔵文書曰、自古来之御證文数通、令拝見候、如年来御寺中、諸役不可有之候。若非分相違之族、有之付而者、早々可蒙仰候。不可存無沙汰候、後日之状仍如件、巳11年26日、本覚寺、駿河守政繁華押。按ずるに、天正9年なるべし。
本尊三宝を安ず。又釈迦文殊普賢の像あり。元の本尊と云、寺領12貫200文の地は天正19年11月御朱印を賜ふ。元文2年村雲御所より緋紋袈裟網代の免許あり。
寺宝
曼陀羅一幅、日蓮筆。
日蓮消息十通。
記録一巻、日出天台宗と問答の時、執権某是非を糾し、又修法の怪異に驚き、褒賞して、田園を寄附するの由、日出の書なり。巻尾に永享8年5月晦日とあり。
古文書十通、其文前に註記す。(新編相模国風土記稿より)

鎌倉市掲示による本覚寺の縁起

本覚寺のあるこの場所は幕府の裏鬼門にあたり、源頼朝が鎮守として夷堂を建てた所といわれています。この夷堂を、日蓮が佐渡配流を許されて鎌倉に戻り、布教を再開した際に住まいにしたと伝えられます。その後、鎌倉公方・足利持氏がこの地に寺を建て、日出に寄進したのが本覚寺であるといい、二代目住職の日朝が、身延山から日蓮の骨を分けたので「東身延」と呼ばれています。
日朝は「眼を治す仏」といわれ、本覚寺は眼病に効く寺「日朝さま」の愛称で知られています。
十月は「人形供養」、正月は福娘がお神酒を振舞う「初えびす」でにぎわいます。
鎌倉の住人、名刀工・正宗の墓が境内にあります。(鎌倉市掲示より)


本覚寺所蔵の文化財

  • 木像釈迦如来像(鎌倉市指定文化財)
  • 両脇侍座像(鎌倉市指定文化財)
  • 木像二天立像
  • 日蓮聖人真筆
  • 東身延額

本覚寺の周辺図