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猫の足あと

帰源院。鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派寺院

帰源院の概要

臨済宗円覚寺派寺院の帰源院は、円覚寺境内にある円覚寺の塔頭寺院です。帰源院は、円覚寺38世傑翁是英(勅謚佛慧禅師)が開祖となり創建、僧奇文が中興開祖・北條氏康が中興開基となったといいます。傑翁是英は、大慶寺や浄智寺等の住職を勤めたといいます。

帰源院
帰源院の概要
山号 -
院号 帰源院
寺号 -
本尊 傑翁是英像
住所 鎌倉市山ノ内416
宗派 臨済宗円覚寺派
葬儀・墓地 -
備考 一般参観不可



帰源院の縁起

帰源院は、円覚寺38世傑翁是英(勅謚佛慧禅師)が開祖となり創建、僧奇文が中興開祖・北條氏康が中興開基となったといいます。

新編相模国風土記稿による帰源院の縁起

帰源庵
開祖是英、(高僧傳曰釋是英號傑翁、貞和観應間遷住相之大慶、浄智圓覚、永和四年三月十二日、寂子鹿山帰源庵、勅謚佛慧禅師)、門に萬法帰源客殿に不二の額を掲ぐ、書院を號して好雪と唱ふ、僧奇文を中興開祖とし北條氏康を中興開基とす、奇文は兼任して武州比企郡三保谷養竹院に住す、天文十六年十月敷地一貫三百文餘の地を氏康寄附あり(文書云敷地之事、一貫三百八十文之分、任永正十七庚辰歳落着之旨、令寄附者也、仍如件、天文十六丁未十月、帰源庵虎朱印あり、)是年十一月又氏康本那須崎郷大慶寺分の地今寺分村と云、寄附ある宗書翰を寄す(曰、前々寺領之由候間、須崎大慶寺分、進置候、然者鎌倉に過半御在寺、可為肝要候、子細者龍源軒、可被申候、恐々敬白、天文十六丁未十一月二十一日、養竹院氏康華押、)又此地の事により十八年八月氏康再書翰を寄す(曰、其他和談以来、種々御馳走候、然者先年約諾申、大慶寺分進置候、子細者、自龍源軒、可被申置候、恐々謹言、天文十八己酉八月十五日、養竹院御司、氏康華表)永禄九年須崎郷の地、先蹤の如くたる旨氏政證書を授與す(曰、如先證文筋目、須崎大慶寺分、猶以下有相違候恐白、永禄九丙寅七月廿一日、帰源庵、氏政華表、)大道寺資親添状あり(曰、須崎之内、大慶寺分之事、如先御證文、此度改而尚貴寺江被附置、御證判被遣候、然者御寺中似合之修造、御心掛肝要に候、恐惶敬白、永禄九丙寅八月朔日、帰源庵駿河守資親華表、)天正十二年十二月氏直寺領の書状を寄す(曰、如先證文之筋目、須崎大慶寺分、猶以不可有相違候仍如件、天正十二年甲申十二月十二日、帰源庵、氏直華表、)同時板部岡融成入道江雪奉はりて須崎郷の地山林制禁の事を令す(曰、須崎寺分之山林竹木剪取事、堅令停止了、若違犯之輩有之者、可有披露、可處厳科者也、仍如件、天正十二年甲申十二月十二日、帰源庵、江雪奉之、虎朱印あり、)十八年東照宮此地を過らせ給ふ時當庵に入らせ給ひ、現住雲如に護法の事を命じ給ひ、金百両と賜ふ時(事は本寺の條下に詳載す、)當庵の領所も他郷に在所當村内に移し賜ふ(鹿山略記曰、東照宮領賜封命之書子圓覚寺之時、當庵七世如意東堂、敬聞官衙、而諸塔頭并當庵之封土、在他郷者、移山内之地、賜封書云々、)堂後の山上に蘭亭の碑あり。
寺寶
法嗣歴世画像十幅。各頻斐筆、画上に諸語あり、一は達磨、一は慈明・揚嶼・白雲三師、一は馬祖・黄檗・百丈三師、一は臨済・與化・南院三師、一は東山五祖・虎丘・圓悟三師、一は掩室・佛源。石渓三師、一は法源之庵・佛慧三師。
瀧見観音画像一幅、可然可翁。
文殊画像一幅。筆者詳ならず、朱画と云傳ふ。
夢想国師書翰一幅。
開山佛慧画像一幅。画上に石室の賛辞あり。
奇文肖像一幅。希叟の需に應じ、自画で自賛を加ふ、永禄七年五月日とあり。
江湖疏四軸。内には叔悦薦席の時、諸国の僧徒、當時来会する者より、叔悦を推挙する、文章なりと云ふ、永正十七年の書紀、一は奇文の時勧むる所、永禄元年の書紀、一は龍派が時勧むる所なりと云ふ、元和九年の書紀。
山門疎二軸。一は奇文の時、山門の僧徒が勧むる所、天正十八年の書紀、一は時代詳ならず。
諸山疎ん二軸。一は奇文が時、諸山の僧徒等が、勧むる所、永禄元年の書紀、一は時代詳ならず。
古文書十五通。同七通は、前に注記せり、一は建武二年直義が畠山孫太郎貞康に與ふる釆地の下文、一は康安二年千葉介に與ふる散位某が奉書、一は応安元年武州金陸守に下す沙弥某が奉書、一は元亀四年庵領夫役の事により北条氏繁が證状、一は天正十三年続正院に寄する永仙院昌済。築田右馬助等連名の書翰、一は同十九年寺領御朱印の事に依り林道春同永喜連名の書翰、一は左馬助某が書翰(年代詳ならず、下同じ、)一は大道寺源六周勝が書翰、
稲荷社、境内鎮守。(新編相模国風土記稿円覚寺項より)


帰源院の周辺図


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