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善通寺|江戸川区平井にある浄土真宗本願寺派寺院

善通寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の善通寺は、真光山明証院と号します。善通寺は、千田真太郎宗信(法名蓮真)が康正年間(1455-1457)に善導院と号して創建したといいます。四世永林上人の代に五分一に移転、六世林説上人の代(慶長元年1597年)に東小松川に移転して善通寺と改号、荒川開削に伴い大正4年当地へ移転したといいます。

善通寺
善通寺の概要
山号 真光山
院号 明証院
寺号 善通寺
住所 江戸川区平井1-25-38
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 -
備考 -



善通寺の縁起

善通寺は、千田真太郎宗信(法名蓮真)が康正年間(1455-1457)に善導院と号して創建したといいます。四世永林上人の代に五分一に移転、六世林説上人の代(慶長元年1597年)に東小松川に移転して善通寺と改号、荒川開削に伴い大正4年当地へ移転したといいます。

江戸川区教育委員会掲示による善通寺の縁起

浄土真宗本願寺派で、真光山明証院と号します。
千田真太郎宗信(法名蓮真)が康正年間(1455-1457)に創建したと伝えられています。旧東小松川村にありましたが、大正4年(1915)荒川の開削により現在地に移転しました。境内には、千葉家旧家臣秋元刑部左衛門尉胤次、加命堂病院創立者奈良林元春の墓があります。(江戸川区教育委員会掲示より)

「江戸川区史」による善通寺の縁起

善通寺(平井一丁目二五番三八号)
浄土真宗で真光山明灯院と号し京都西本願寺の末、開山は蓮真で康正年間という。本尊は中将姫作の蓮糸織阿弥陀如来曼荼羅をまつる。中将姫は聖武帝の御代横佩右大臣豊成公の女で、十六歳の時当麻寺に入り実雅阿闍梨を師とし法名を善心法女といった。日夜誦経念仏していると、ある日尼僧が現われて、極楽浄土を見るには蓮糸で極楽浄土を織っておがむがよいといわれた。その事が朝庭に達すると百駄の蓮茎が集められた。法女は尼僧と共に糸をとって洗うとこれが五色の色に染まった。そして夕方になると一人の織女が現われて、その夜のうちに一丈五尺の大曼陀羅を織り上げ、翌朝織女はこれを両尼に渡すとどこかに消えてしまった。また尼僧も観無量寿経の話を終ると、私の仕事はもうこれで終ったといって紫の雲に乗って帰られた。
善心法女は残りの蓮糸で、如来の髪には自分の髪の毛を織りこんで六尺の尊像を織り上げて、これを庵室に安置して日夜誦経念仏すると、その部屋に紫雲が常にたなびいていたという。
その後千葉介常胤が当麻寺からこの尊像を願い求めて守り本尊とした。かくて常胤より九世平氏胤の次男で下総国曾谷の城主千田太郎宗胤に伝わり、宗胤は後に入道して善導院願阿と号した。その嫡子真太郎宗信は康正年中大谷蓮如上人の弟子となり蓮真と号し、帰国の後小松川に一寺を建立して善導院と名づけ、この尊像を本尊とした。これが善通寺の始まりで、その頃お堂から光明が発するので「光御堂」といわれたという。
後に四世永林上人の代に五分一に移り、六世林説上人の時慶長元年東小松川に移って寺号を善通寺と改めた。大正四年荒川の開さくにより現在地に移転したが、昭和二十年三月戦災で焼失し多くの記録を失った。現在の本堂は鉄筋造りで昭和三十六年に完成した。厨子は宝暦九年阿部伊勢守の寄進で、また墓地には小松川風てん病院長奈良林父子の墓がある。(「江戸川区史」より)

新編武蔵風土記稿による善通寺の縁起

(東小松川村)善通寺
浄土真宗、西本願寺末、真光山と号す。本尊阿弥陀を置。開基は千葉介太郎宗胤の臣秋元刑部左衛門尉胤次といへど、歿年法号等詳ならず。中興開山釋林説は慶長19年正月14日寂す。
什寶。
名号一幅。親鸞自筆なり。関東化導の時千葉介常胤に書し与へしものなり。伝来の謂は下に記す。
曼陀羅阿弥陀一幅。中将姫蓮絲を以て織出せし像にて、千葉介常胤が家の守本尊なりしが、親鸞関東化導の時、常胤如来の名号を所望にまかせ、親鸞すなはち書して与へり。子孫千葉介太郎宗胤、此弥陀の夢告によりこの像と彼名号の二物を己が家臣秋元刑部左衛門尉胤次に授く。胤次の子孫民間に下りて小松川の里を開き土着せし後、当寺に寄附すと云。今も村内及西小松川に胤次の子孫残れり。
地蔵堂(新編武蔵風土記稿より)


善通寺の周辺図