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善林寺|中央区築地にある浄土真宗本願寺派寺院

善林寺の概要

浄土真宗本願寺派寺院の善林寺は、松籟山と号し、開基は越前朝倉家一門の武士、真柄十郎左衛門の孫です。四代目宗休が江戸浜町本願寺建立の時、本願寺12代目准如上人の命により尽力し、その功績により寛永11年3月20日(1624)善林寺の号をいただき一ヶ寺を建立しました。明暦(1657)の大火によって浜町御坊(後の築地本願寺)と共に築地へ移転、関東大震災後の区画整理で当地に移転しました。

善林寺
善林寺の概要
山号 松籟山
院号 -
寺号 善林寺
住所 中央区築地3-17-8
宗派 浄土真宗本願寺派
葬儀・墓地 善林寺会館
備考 八千代善林寺(八千代聖苑)



善林寺の縁起

善林寺の開基は越前朝倉家一門の武士、真柄十郎左衛門の孫です。四代目宗休が江戸浜町本願寺建立の時、本願寺12代目准如上人の命により尽力し、その功績により寛永11年3月20日(1624)善林寺の号をいただき一ヶ寺を建立しました。明暦(1657)の大火によって浜町御坊(後の築地本願寺)と共に築地へ移転、関東大震災後の区画整理で当地に移転しました。

善林寺栞による善林寺の縁起

善林寺の開基は越前朝倉家一門の武士、真柄十郎左衛門の孫です。日本国中が戦乱の最中本願寺8代目蓮如上人が、吉崎御坊建立の折、これに一族をひきいて協力し蓮如上人の弟子となり宗久という僧名を頂いて出家し、上人のもとで仏法弘通のため日夜精進されました。 当時は念仏集団が全国に広まりつつあり、そのエネルギーが利用されて一向一揆が頻発したため、蓮如上人の身辺を按じて、宗久とその一族は側近として護衛の任につかれました。 三代目宗敏は石山合戦で討死されましたが、四代目宗休は江戸浜町本願寺建立の時、本願寺12代目准如上人の命により尽力され、その功績により寛永11年3月20日(1624)善林寺の号をいただき一ヶ寺を建立しました。 四代目宗休は当時の文化に精通されており、華道の名門池之坊に師事し松之坊の称号をいただいておられます。 後日松籟山の山号は之に由来するものと推察されます。 その後、世に云う「振袖火事」明暦(1657)の大火によって江戸の三分の一は焼失し浜町本願寺も善林寺も灰塵に帰してしまいました。それを期に徳川幕府は江戸の区画整理を断行し、浜町の本願寺及びその他の寺々は移転を余儀なくされ、その代替地として下賜されたのが八丁堀海岸と網干場でした。当時の漁師の人々は、大阪から幕府並びに諸大名に海産物を供給するために江戸に移転してきた佃島門徒衆でした。この門徒衆が結集し、本願寺建立のため率先して埋立に協力、護岸工事には下田の浄性寺門徒が舟で石を運んでくれました。その半年がには紫宸殿造りの立派な築地本願寺を建立、周囲には善林寺を始め、57ヶ寺の末寺が建ち並び一大寺町になりました。その景観たるや見事なものであったことでしょう。 善林寺は関東大震災を含めて前後8回火災で焼失したと伝えられて居ります。昭和のはじめ、東京市の区画整理で晴海通り中央にあった寺地が半分に縮小され現在地に移りました。(以下省略)(善林寺案内より)

「中央区史」による善林寺の縁起

松籟山 善林寺
寛永十一年巻に来宗休によって江戸御坊境内に創建され、明暦大火後現在地に移転した。しばしば災害に罹りその都度全焼・損壌の厄をこうむったが、血脈相承十六代にわたる住職と壇信徒によって維持経営されて来た。昭和六年五月銅葺の本堂入母屋式コンクリート造三階(地下室共)延八五坪が落成し、追って庫裡四〇坪が同一〇年六月に竣工した。本尊は中央に阿弥陀如来方便法身像を安置し、両脇には祖師上人・前住上人・聖徳太子・三国七高僧画像が配されている。壇戸五八戸、墓石九四基、中に帝室抜芸員村瀬玉田の墓がある。寺屋及び什物の一部は火災を免れ今日に残存するが、その主要なものを挙げれば、十字名号掛軸・鉈切阿弥陀如来木像(恵信僧都作と伝う)・仏室・祖龕・荘厳用具・銅鑒・喚鐘・輪灯・金灯龍等である。(「中央区史」より)


善林寺の周辺図