慶林寺|松戸市殿平賀にある曹洞宗寺院

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熊耳山|小金城主高城胤永が創建

慶林寺の概要

曹洞宗の慶林寺は、熊耳山と号します。慶林寺は、小金大谷口城主高城胤吉の妻で十三代千葉介昌胤の妹にあたる月菴珪林尼が、高城胤吉の菩提を弔うために出家して庵室を創建、その翌月に月菴珪林尼が亡くなったため、その子従五位下野守小金城主胤永が永禄8年(1565)に桂林寺として創建したといいます。徳川家康の関東入国した翌年(天正19年1591年)には寺領10石の御朱印状を受領していました。松戸史跡七福神の寿老人です。

慶林寺
慶林寺の概要
山号 熊耳山
院号 -
寺号 慶林寺
住所 松戸市殿平賀209-2
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



慶林寺の縁起

慶林寺は、小金大谷口城主高城胤吉の妻で十三代千葉介昌胤の妹にあたる月菴珪林尼が、高城胤吉の菩提を弔うために出家して庵室を創建、その翌月に月菴珪林尼が亡くなったため、その子従五位下野守小金城主胤永が永禄8年(1565)に桂林寺として創建したといいます。徳川家康の関東入国した翌年(天正19年1591年)には寺領10石の御朱印状を受領していました。

「松戸のお寺」による慶林寺の縁起

当山は、山号を熊耳山と号し、曹洞宗に属します。
今より約450年前、大谷口城主高城下野守胤吉の妻(十三代千葉介昌胤の妹に当たる)が、胤吉の没した永禄八年(一五六五)二月剃髪して、月菴珪琳尼と称し、殿平賀の鹿島神霊の辺に庵を建てたのが始めであります。
そして珪琳尼が没すると、胤吉の子である、従五位下下野守胤辰は、月菴珪琳大姉追福のため、桂林寺をその庵の跡に建立しました。桂林寺が慶林寺になったのは天正十九年(一五九一)徳川家康の御朱印からであるようです。
ご本尊は大福薬師瑠璃光如来。ご開山はご本寺広徳寺六世大岸(晩年は大洲)舜達大和尚、ご開基は月菴珪琳大姉を大切にお守り致しております。
松戸市指定の文化財としては
①月菴珪琳大姉の墓所
②野馬奉行、綿貫夏右衛門の墓所(慶長年中佐倉小金野馬奉行-墓所に銘あり)
③天正十二年(一五八四)の銘のある太鼓(非公開)
④天正九年(一五八一)の銘のあるご開山直畢の古文書
があります。(「松戸のお寺」より)

「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」による慶林寺の縁起

慶林寺
殿平賀字寺台ニアリ。熊耳山ト号ス。曹洞禅宗ニシテ中金杉広徳寺ノ末寺ナリ。大洲舜達ノ開基ニシテ、天正十九年十一月、小本山広徳寺ト共ニ徳川家康ノ朱印地アリシガ現今民有トナレリ。(「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」より)

「下総国旧事考」による慶林寺の縁起

桂林寺
今作慶林豫墓碑当作桂林。在殿平賀村。高城下野守胤辰創建。即胤辰配桂林尼退隠之地。僧大洲所開也。域中有胤辰配桂林尼墓、月菴桂林大姉、載于墳墓志稿。所蔵軍扇一枚。
下野守所持、古文書敷葉。載于古文書志稿。隷国府台総寧寺、寺領十石。(「下総国旧事考」より)


慶林寺所蔵の文化財

  • 珪琳尼の墓所

珪琳尼の墓所

月菴珪林尼は、小金大谷口城を築いた高城胤吉の妻で十三代千葉介昌胤の妹にあたり胤吉の死後(永禄八年1565年2月12日)剃髪して月菴珪林尼と称し、鹿島神霊の辺に庵を結んだ。そして胤吉の没した翌月の三月十二日に永眠した。その子従五位下野守小金城主胤辰は、珪林尼追幅のために同所に慶(桂)林寺を建立した。
なお、現在ある月菴珪林尼の墓石は享保十五年(1720年)に子孫といわれる高城清右衛門が建てたもので、その銘に「胤辰の妻」とあるは誤りである。(松戸市教育委員会掲示より)

慶林寺の周辺図


参考資料

  • 「松戸のお寺」
  • 「松戸市史料 第4集 松戸町誌・小金町誌」
  • 「下総国旧事考」