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弘法寺|日蓮宗由緒寺院、市川市真間にある日蓮宗寺院

弘法寺の概要

日蓮宗寺院の弘法寺は、真間山と号す、日蓮宗由緒寺院の一つです。弘法寺は、真間の手児奈の霊を供養するため、行基菩薩が求法寺と称して創建したといいます。建治元年(1275)時の住持了性が日常上人との宗論に敗れ、日蓮宗に改宗、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫主としたといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領、元禄8年(1695)には水戸光圀も来訪したという名刹です。

弘法寺
弘法寺の概要
山号 真間山
院号 -
寺号 弘法寺
住所 市川市真間4-9-1
宗派 日蓮宗
葬儀・墓地 -
備考 真間山幼稚園併設



弘法寺の縁起

弘法寺は、真間の手児奈の霊を供養するため、行基菩薩が求法寺と称して創建したといいます。建治元年(1275)時の住持了性が日常上人との宗論に敗れ、日蓮宗に改宗、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫主としたといいます。天正19年(1591)徳川家康より寺領30石の御朱印状を拝領、元禄8年(1695)には水戸光圀も来訪したという名刹です。

市川市教育委員会掲示による弘法寺の縁起

弘法寺は、略縁起によると、奈良時代、行基菩薩が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法寺がはじまりであり、その後平安時代弘法大師(空海)が七堂を構えて「真間山弘法寺」とし、さらにその後天台宗に転じたとされる。
真間の地は、かつてはすぐ北に六所神社があり、国府が設置されていた古代以来の下総国の中心地であった。そのためここに古くから寺院があった可能性は高く、本来は国府と密接にかかわる寺院であったとの推測もある。
鎌倉時代、この地に及んだ日蓮の布教を受けて、建治元年(1275)時の住持了性が日蓮の弟子で中山法華経寺の開祖日常と問答の末やぶれ、日蓮宗に転じ、日常の子で六老僧の一人日頂を初代の貫主としたと伝える。
鎌倉末期の元亨3年(1323)には千葉胤貞により寺領の寄進を受け、延文3年(1358)の日樹置文によれば葛飾郡一帯や千田庄(多古町)に多くの寺領や信徒を擁していたことが知られる。また室町・戦国時代には山下に真間宿または市川両宿といわれる門前町が発展し、賑わいをみせていた。
天正19年(1591)徳川家康より御朱印地30石を与えられ、元禄8年(1695)には水戸光圀も来訪したと言われる。
江戸時代には紅葉の名所として知られ、諸書に真間山弘法寺の紅葉狩りのことが記されているが、明治21年(1888)の火災のため諸堂は焼失してしまった。その後明治23年(1890)に再建され、現在に至っている。
境内には、日蓮の真刻と伝える大黒天をまつる太刀六大黒尊天堂、水戸光圀が賞賛して名付けたといわれる遍覧亭、袴腰の鐘楼、仁王門、伏姫桜とよばれる枝垂桜があり、小林一茶、水原秋桜子、富安風生などの句碑がある。(市川市教育委員会掲示より)

稿本千葉県誌による弘法寺の縁起

真間山弘法寺
同郡(東葛飾郡)市川町大字真間字本寺際に在り、境内六千七百五十二坪、日蓮宗本山たり。寺傳に云ふ、本寺もと弘法大師の創立に係り、天台・真言両部の一大梵刹なりしが、後大檀那富木胤織日蓮の宗義を信じ、當時の座主了性法師大に天台の教綱を張り痛く日蓮の主義を誹殷す、胤織之と宗義を論難し了性覚に屈し其の徒を散して自ら山門を脱す、是に於て胤織改めて日蓮宗とし真間山法華堂と稱し後又改めて弘法寺と稱す、胤織日蓮に之が開祖たらんことを請ふ、日蓮其の徒弟日頂に命じて其の任に當らしめたりと。天正十九年十一月徳川家康寺領として三十石の地を附輿す、本寺に古文書及び什寳多し、境内正和以降の古碑七基あり、塔中七院末派三十二あり。(稿本千葉県誌より)


弘法寺の周辺図


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