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妙行寺|市川市原木にある日蓮宗系単立寺院

妙行寺の概要

市川市原木にある日蓮宗系単立寺院の妙行寺は、原木山と号します。妙行寺は、円増院日進上人が天文7年(1538)に開創したといいます。

妙行寺
妙行寺の概要
山号 原木山
閣号 -
寺号 妙行寺
住所 市川市原木1-24-1
宗派 日蓮宗系単立
葬儀・墓地 -
備考 -



妙行寺の縁起

妙行寺は、円増院日進上人が天文7年(1538)に開創したといいます。

妙行寺栞による妙行寺の縁起

原木山妙行寺縁起
当山は原木山妙行寺と云い、日蓮上人の流れを汲む寺院であります。即ち日蓮上人の法孫で、京都市上京区妙顕寺の創立者である処の日像上人から、更に八代日の日具上人の弟子円増院日進上人に依って、天文七年(西暦一五三八年)七月開創されたのであります。
そしてこの当山の開祖日進上人は、非常に教化カの旺盛な上人であったとみえて、当原木一村四十余戸(当時)を全部当山の信徒としてしまったのであります。その教化カは、尚他部落にまでも及びましたので、寺門は次第に興隆したのでした。そしてそれから二百十五年を経た宝暦十二年十二月、大本山法華経寺の諸堂を除いて、塔中寺院の殆んどが焼失してしまいました。その時、火災の中より出現した日法上人御真刻の日蓮大上人の御板影が当山に運ばれ、翌宝暦十三年一月十九日仮安置を申上げました。処が寛政三年八月六日(西暦一七九一年)の大津浪の災害に遭って、村落の大半と共に、御本尊、御影を除き寺堂は流失して終ったそうであります。然し転寛政三年の「つなみ」から十三年を過ぎた享和三年正月三日、幕府の役人が来山、火中出現の御影を拝し、これは貴重な尊影であるから永く当山に安置する様に、との通達(当時は墨付と云った)があって、それ以来、当山に正式に安置申上げた為に当山は次第に復興しました。然るに明治初年、政府の仏教排斥政策のあおりを受けて、寺門は全く衰微の極に達したのでありますが、たまたま当村にお生まれになった本顕院日淳上人(嘉永元年三月二十八日生、西暦一八五〇年)に依って、当山は再び隆盛を極めるに到ったのであります。
因に日淳上人は、二十四、五才の頃肺結核に侵され、医師にも見放され、只死を待つのみとなってしまったのであったが、剛気な日淳上人は、此の法華経には「是の経を読まん者は常に憂脳なく又病痛なく…病即ち消滅して老いず又若くして死ぬ事なし」と云う有難い経典なのであるから、此の祈祷法を修行して、寿命の無い者ならば、死んでしまっても止むを得ないが、先づ我が此の身を以て、法華経に示されてある教主釈尊のお言葉を体験して見ようと固い信念の下に、明治六年十一月一日から明治七年二月十日(西暦市八七四年)まで、極寒にかけて、宗祖日蓮大聖人から伝えられて居る処の、市川市中山智泉院に安置されてある祈祷の守護神である鬼子母尊神の御堂に百日間篭られて、然も毎日、一日七回の冷水を被る水行と共に、更に上人は、左の腕に線香一把に火を燃して載せる火の行を為され乍ら、一心に法華経を暗誦された。処がそれから七日目に大声を発する事が出来て、中山から二キロ離れて居る当山まで、その読経の声が能く聞き取る事が出来たと云う事であります。
以上の次第で、それ以来日淳上人の教え、並に祈祷を慕って、日本全国はもとより外国からも来詣するようになったので、法運は漸次向上発展して、今日の如き広い境内と、諸堂が完備するに至ったのであります。そうして又日淳上人は、当山へも祈祷の守護神である処の鬼子母尊神を奉安された。そこで当山では昭和三十三年から、比の鬼子母尊神を大荒行(十一月一日から翌年二月十日まで百日間)の守護神とし、一堂に毎年僧侶となる修行者を、数名に限り入堂を許可して、年々立派に修行を終了した僧侶を送り出して居ます。(妙行寺栞より)

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