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登渡神社|千葉市中央区登戸の神社

登渡神社の概要

登渡神社は、千葉市にある神社で、登戸神社とも称されます。登渡神社は、千葉家の遺族、登戸権介平定胤が祖先を供養するために正保元年(1644年)創建した白蛇山真光院(通称登戸妙見寺)の妙見大菩薩を創始とするといいます。慶応3年(1867)登渡神社と改めた後、明治41年鷲神社を合祀、戦前まで村社に列格していました。

登渡神社
登渡神社の概要
社号 登渡神社
祭神 天御中主神、高皇産霊神、天日鷲神、神皇産霊神
相殿 -
末社 水神社、稲荷神社、天神社、古峰社、等
例祭日 9月5日
住所 千葉市中央区登戸3-3-8
備考 旧村社



登渡神社の由緒

登渡神社は、千葉家の遺族、登戸権介平定胤が祖先を供養するために正保元年(1644年)創建した白蛇山真光院(通称登戸妙見寺)の妙見大菩薩を創始とするといいます。慶応3年(1867)登渡神社と改めた後、明治41年鷲神社を合祀、戦前まで村社に列格していました。

「稿本千葉県誌」による登渡神社の由緒

登渡神社
千葉郡千葉町大字登戸字上に在り、境内千二十一坪、祭神は天御中主命なり。社伝に云ふ、正保元年九月登戸定胤之を創建し妙見尊星王と称せしが、慶応三年十二月今の称に改めたりと。社字甚だ大ならずと雖も構造稍美なり、又、域内に小阜ありて眺望頗る佳なり。大正二年四月弊饌料供進指定(「稿本千葉県誌」より)

登渡神社栞による登渡神社の由緒

当神社は正保元年(一六四四)九月五日、千葉家の遺族、登戸権介平定胤が祖先を供養するため千葉妙見寺(現在の千葉神社)の末寺(白蛇山真光院、通称登戸妙見寺)として妙見大菩薩を奉斉し、僧定弁に守護させたのがそのはじめであると伝えられております。その後、十四世興胤の時、慶応三年(一八六七)十二月二十六日、御社号を登渡神社と改め御祭神を天御中主神以下の造化三神に定め、明治四十一年(一九〇八)十二月十八日、登戸字鷲塚(千葉市新千葉三丁目)鎮座、鷲神社(御祭神、天日鷲神)を合祀し、四柱の神様をお祭りすることになりました。のち昭和四十八年(一九七二)八月五日、御鎮座三三〇年記念臨時大祭を執行し、更に、平成二年(一九九〇)六月三十日、本殿移築、弊殿・拝殿新築、また、神輿庫、大師堂、古札納所新築、その他末社の修理、境内地の整備等が成り遷座奉祝祭が賑々しく斎行された。今上陛下御大典という我国歴史上の佳年に、この大事業が成されたことは御神慮は勿論のこと、敬神の念篤き氏子崇敬者の皆様方の御尽力の賜物であると存じます。当神社の氏子崇敬者が千葉市西部地区全域に及ぶところから特に西千葉総鎮守と称えられ広く一般の人々から尊崇されております。(登渡神社栞より)


登渡神社所蔵の文化財

  • 登渡神社の小壁嵌板彫刻

登渡神社の小壁嵌板彫刻

登渡神社の前身は、白蛇山真光院定胤寺と称し、正保元年(1614)に千葉家の子孫登戸権介定胤が祖先の霊を供養するために千葉妙見寺(現在の千葉神社)の末寺として建立したと伝え、別殿の妙見社を祀り別当として真光院がありましたが、明治時代の神仏分離令に際して別当寺を廃し、妙見社を登渡神社と定めました。
現在の本殿は、正面向拝下の疑宝珠柱の疑宝珠の紀年銘から嘉永元年(1848)に再建されたもので、建物本体は葛飾郡の大工紋次郎が棟梁で、彫刻は信州諏訪の名工立川四郎富昌または三代富重や富重次男の富種(啄斎)が関与していたと考えています。蟇股部分の鼠・龍・虎などの十二獅支、正面向拝部の唐美人・鳳凰・木鼻の獅子と獏など一連の彫刻は、いずれも欅の白木で見せ洗練された写実風の表現でまとまる立川流の技法の特色が認められます。その他、戦災で焼失した千葉神社社殿の彫刻も立川和四郎の作であったと伝えられており、長野県を中心とした立川流の作品分布では、登渡神社の作品が最も東方に残されているものです。(千葉市教育委員会掲示より)


登渡神社の周辺図


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