観音寺|我孫子市日秀にある曹洞宗寺院

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観音寺|我孫子市日秀にある曹洞宗寺院

観音寺の概要

我孫子市日秀にある曹洞宗寺院の観音寺は、慈愍山と号します。観音寺の草創年代等は不詳ながら、平将門の守本尊であった行基菩薩作観世音像を、将門神社近くの仏堂に安置、天台宗西林寺の徳道和尚を開祖として、大悲山和泉寺と称していたといいます。寛文2年(1662)、長安常久禅定門(日秀弾正友治か?)が開基、正泉寺九世名翁全誉大和尚を開山として当地に移転、曹洞宗観音寺としたといいます。新四国相馬霊場八十八ヶ所29番です。

観音寺
観音寺の概要
山号 慈愍山
院号 -
寺号 観音寺
住所 我孫子市日秀90
宗派 曹洞宗
葬儀・墓地 -
備考 -



観音寺の縁起

観音寺の草創年代等は不詳ながら、平将門の守本尊であった行基菩薩作観世音像を、将門神社近くの仏堂に安置、天台宗西林寺の徳道和尚を開祖として、大悲山和泉寺と称していたといいます。寛文2年(1662)、長安常久禅定門(日秀弾正友治か?)が開基、正泉寺九世名翁全誉大和尚を開山として当地に移転、曹洞宗観音寺としたといいます。

「稿本千葉県誌」による観音寺の縁起

慈愍山観音寺(我孫子市日秀)
同村(湖北村)大字日秀字西にあり、境内五百廿五坪、曹洞宗なり、創建不詳、本堂に観音像を置く。寺傳に云ふ、平将門の守護佛なりと。元石井岡にありしが寛文二年村人増田某今の地に移し堂宇を改營せり、来賽する者少なからず。(「稿本千葉県誌」より)

「我孫子市史」による観音寺の縁起

観音寺 日秀九〇
山号慈愍山 曹洞宗 もと正泉寺
草創について『湖北村誌』には、古く将門神社の境内に仏堂が営まれ、将門の守本尊の行基菩薩作観世音像を安置し、守谷村の天台宗西林寺から徳道和尚を請じて開祖とし、大悲山和泉寺と称したと記されている。それが時をへて、現在の位置に移され、改めて観音寺として創立されたということになるであろう。
観音寺の創立は、寛文二年(一六六二)で、開山は正泉寺九世名翁全誉大和尚、開基を長安常久禅定門とする。この開山については、名翁の弟子の瑞喜順的大和尚が旧佐竹街道沿いの現在の地に仏堂を建立して、師の名翁を開山に迎え、自らは二世を称えたという。また、開基は日秀弾正友治と考えられる。なお、開創の事情については、「下総国相馬郡日出村観世音菩薩縁起」に「中世、日秀弾正佐友治此庄の守護となり深く観世音を信仰し、慈愍山観音寺境内江一宇を建立し、開山名応和尚を導師として安座供養し奉る」と記されている。
この縁起は、元禄十五年(一七〇二)三月九日付の守屋町宮本丹波守並びに神主和泉守の手記になるものを文化元年(一八〇四)に正泉寺二十四世機外恩禅和尚が書写したとある。
安永田年(一七七五)の相馬霊場の創設に当っては、当寺は第二十九番土佐国分寺写し、本尊は聖観世音とされた。観音堂にまつられている観音の信仰がさかんだったためであろう。
明治の「寺院明細帳」には、「本尊釈迦如来、本堂間数 間口三間 奥行三間 庫裏間数 間口八間三尺 奥行六間」と記されている。ここに記された本堂は規模からみて観音堂であり、本尊釈迦如来は庫裏のある建物の仏間に安置されているので、庫裏の方が当寺の本来の本堂ということになるであろう。
現本堂仏間は建物の中央奥の間で一段高くなっており、奥壁に仏壇があって、本尊その他の仏像が安置されている。
本尊は、木造釈迦如来の定印坐像で、像高一五・五cm、台座及び光背が具備していて厨子に安置する。
本尊の右脇には、木造阿弥陀如来の定印坐像が安置されている。像高二一・五cmで、台座及び光背を具備し、光背の頭円光の部分に、小形柄鏡を嵌めているのが注目され、その鏡背は麻の葉つなぎの文で、「藤原正安作」の銘がある。
本尊の左脇には、木造地蔵菩薩坐像を安置する。台座は欠損して、箱形の台が補作されているが、のこった部分は素弁の古式な二重蓮華座で、坐高は二六cmである。以上の諸尊像は、いずれも江戸時代の作で、近年の補修をへたものとみられる。
なお、道元禅師坐像がある。椅子に座る木造玉眼彩色像で坐高は二〇・五cm、いまは、膝前の剝付部分が失われている。面奥に「道元禅師、仏師林哲、金治郎、文化四(一八〇七)卯、二月二十八日」の墨書のあることが知られている。
その他、延享三年(一七四六)調進の鏧子、「南無阿弥陀仏」の名号掛幅で箱に「明和七年(一七七〇)正月廿日、新調法願、念仏中(以下四名連記)」と記すものがあり、十王図一幅は十図(各図縦五六・五、横二五・六cm)を貼り合せた大幅で、近年修復された。この十王図は中国元代の十王図にならったもので、丹念な描写になる江戸時代中期の製作と認められる。(「我孫子市史」より)


観音寺の周辺図


参考資料