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伊勢山天照神社|我孫子市中峠の神社

伊勢山天照神社の概要

伊勢山天照神社は、我孫子市中峠にある神社です。伊勢山天照神社の創建年代は不詳ながら、景行天皇の東国巡行の際に葛飾野に狩猟せられた跡と伝えられるといいます。江戸時代には、相馬七郷(岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村)の総鎮守だったといいます。明治9年都部八坂神社を遷座、明治40年には二本榎旧在の浅間神社、鹿島前旧在の鹿島神社、亀田旧在の雷神社、高根旧在の大六天社、海老宿旧在の山王神社を合祀、明治41年には、上溜台旧在の稲荷神社、下根古屋旧在の足尾山神社を合祀したといいます。

伊勢山天照神社
伊勢山天照神社の概要
社号 天照神社
祭神 大日霊売命〈大日孁貴命)
相殿 -
境内社 -
住所 千葉県我孫子市中峠1148
祭日 -
備考 -



伊勢山天照神社の由緒

伊勢山天照神社の創建年代は不詳ながら、景行天皇の東国巡行の際に葛飾野に狩猟せられた跡と伝えられるといいます。江戸時代には、相馬七郷(岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村)の総鎮守だったといいます。明治9年都部八坂神社を遷座、明治40年には二本榎旧在の浅間神社、鹿島前旧在の鹿島神社、亀田旧在の雷神社、高根旧在の大六天社、海老宿旧在の山王神社を合祀、明治41年には、上溜台旧在の稲荷神社、下根古屋旧在の足尾山神社を合祀したといいます。

「我孫子市史」による伊勢山天照神社の由緒

当社の草創は遠く古代にさかのぼる。それについては、大正五年の社殿改築記念碑に当時の社掌で神社の振興につとめた千浜宗輔の識書がみられ、また『湖北村誌』には、日本武尊東征にちなむ伝説とともに、景行天皇の東国巡行のときに葛飾野に狩猟せられた遺跡との言い伝えも記されている。その後の古代から中世にかけての伝承は乏しいが、元文五年(一七四〇)の記録には、当社天照大神宮で十カ村の祭礼が九月朔日に執行されることが記されており、その後、中峠、中里、古戸、日秀、新木、都部、岡発戸の元七カ村組合の大産土として崇敬されてきた。なお祭礼に先だって八月十五日に七郷の氏子総代がここに集まって祭礼の談合協議を行う慣例が大正末年までつづき、祭礼は「炮烙待」といわれ、寛政の頃から七郷の奉納相撲が行われてきたという。
明治の「神社明細帳」には、「社殿間数 間口四尺 奥行弐間」とあり、向拝付の小社殿であったように考えられる。それが大正五年に改築されて、「本殿間数 間口壱間五分 奥行弐間三分三厘 拝殿 間口弐間 奥行弐間五分」となった。この社殿は年月を経て損傷しているが、本殿及び拝殿ともに棟持柱と千木及び勝男木ののる神明造である(改築中)。
鳥居は、石造神明鳥居であるが、もとは木造であった。それが大正六年の大風で倒壊して、昭和八年に石造鳥居に建てかえられた。
境内の八坂神社は、明治九年に都部村から遷座された。また、明治四十年には、二本榎旧在の浅間神社、鹿島前旧在の鹿島神社、亀田旧在の雷神社、高根旧在の大六天社、海老宿旧在の山王神社を合祀、翌四十一年には、上溜台旧在の稲荷神社、下根古屋旧在の足尾山神社が合祀された。それらの中で、浅間神社は草刈浅間と呼ばれ、二聞に一間半の切妻造社殿があり、その後方に「富土浅間大神璽、明治十四巳年五月三十日」と刻んだ石祠がある。また、旧稲荷神社の扁額や、向拝の木鼻の彫刻の残片等も保存されている。
なお、境内に旧在した二十一仏板碑は、天正九年(一五八一)在銘で、海老宿旧在の山王神社の合祀に当って移されてきたものであり、我孫子の地への山王信仰の流伝と庚申信仰の先蹤を知る貴重な文化財である。いま、その板碑は中央公民館の中庭に保存公開されている。
ちなみに、当社は、当地方がかつて相馬御厨として伊勢神宮所領となったことと深い関係があると考えられるが、手賀沼対岸の沼南の塚崎神明社も、相馬御厨の神社としての由緒を語るものである。(「我孫子市史」より)

境内掲示による伊勢山天照神社の由緒

伊勢山天照神社由来
我孫子市中峠の西端に鎮座する「天照神社」の祭神は大日霊売命である。
草創は古い。社掌千濱宗輔の識書になる大正五年九月の「社殿改築記念碑文」や「湖北村誌」によると、遠く景行天皇の御代との伝承である。
そして、昔から下総くの国中相馬七郷「岡発戸村、都部村、中峠村、中里村、古戸村、日秀村、新木村」の総鎮守として崇敬されている。旧暦九月一日が祭礼である。
そして、八月十五日には七郷の氏子総代が親村である中峠村芝原に集まって談合協議を行う慣例が大正末期まで行はれていた。その祭礼は「芝原の焙烙まち」ともいはれている。そして、寛政の頃から(一七八九年〜一八〇〇年)七郷による「奉納相撲」が行はれていた。祭礼の日には大正の末期まで、湖北小学校の生徒の全校参拝が行はれるなど、誠に由緒深い神社である。
現在の社殿は、平成二年十月一日に完成、社殿は本殿幣殿、拝殿からなり、何れも銅板葺、檜造りである。本殿は、神明造、千木、鰹木を備える。水屋は銅板葺、檜造りである。
(合祀)
明治四十年四月二十五日
浅間神社(二本榎旧在)
鹿島神社(鹿島前旧在)
雷神社(亀田旧在)
大六天神社(高根旧在)
山王神社(海老宿旧在)
明治四十一年十二月二十六日
稲荷神社(上溜台旧在)
足尾山神社(下根古屋旧在)
石祠
大杉大明神、水神、足尾大権現、月読命、加蘇山神社、別雷命、大山祇命、
伊勢神宮、三峰神社、出羽三山、富士大山等(境内掲示より)


伊勢山天照神社所蔵の文化財

  • 二十一仏武蔵石板碑(我孫子市指定文化財)

二十一仏武蔵石板碑

関東地方に残る中世の石造物の中で最も多いのが板碑です。板碑とは主として死者の追善供養や、自らの現世安穏後生善処を祈願して建立したもので、後には墓石を兼ねるものも見られます。大きく武蔵板碑と下総板碑に分けられます。
武蔵板碑は、秩父地方に産出する緑泥片岩を素材としています。頭部を山形にして中央に仏・菩薩の画像や種子を彫り、その下に造立の趣旨や年号あるいは戒名などをしるした板状の石塔婆です。千葉県下では利根川中流域から東京湾岸にかけて広く分布しています。
二十一仏石塔婆は全国的にも少なく、埼玉県大宮市を中心に発見されています。その分布範囲は狭く、我孫子市(中峠)はその東限になります。
二十一仏信仰は平安時代に始まりました。比叡山の二十一社の諸神を、仏教の如来・菩薩・明王・天の主なものにあてはめて本地仏としたものです。
この二十一仏石塔婆は天正九年(一五八一年)十一月の作で、中世の宗教資料としても貴重なものです。
平成七年五月十一日に我孫子市指定文化財として指定されました。(我孫子市教育委員会掲示より)

伊勢山天照神社の周辺図


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参考資料
  • 我孫子市史