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竹内神社|我孫子市布佐の神社

竹内神社の概要

竹内神社は、我孫子市布佐にある神社です。竹内神社は、承平年中(931-938)といい、平将門の乱が平定した天慶3年(940)に武内大明神を現愛宕神社の地に奉斎したといいます。文禄2年(1592)森田左右衛門(多右衛と記すものもある)が宮作台の畑で麦の刈りとりをしていたところ、にわかに雷雨となったため、刈りとった麦を積みあげておいて帰り、翌日行ってみると、一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていて、とり入れができないことから、行者が愛宕神社に祈ったところ、「武内神社を此の地に移せ」との神託があって、当地に遷座、社号を竹内神社と改めたといいます。明治9年郷社に列格、近郷の高台稲荷社、谷山権現(総神社)、神明社、御嶽社、三峯社、天神宮、I白山社、琴平宮、水天宮などが遷座・合祀されたといいます。

竹内神社
竹内神社の概要
社号 竹内神社
祭神 天之迦具土命
相殿 日本武尊、竹内宿祢
境内社 -
住所 千葉県我孫子市布佐1220
祭日 -
備考 旧郷社



竹内神社の由緒

竹内神社は、承平年中(931-938)といい、平将門の乱が平定した天慶3年(940)に武内大明神を現愛宕神社の地に奉斎したといいます。文禄2年(1592)森田左右衛門(多右衛と記すものもある)が宮作台の畑で麦の刈りとりをしていたところ、にわかに雷雨となったため、刈りとった麦を積みあげておいて帰り、翌日行ってみると、一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていて、とり入れができないことから、行者が愛宕神社に祈ったところ、「武内神社を此の地に移せ」との神託があって、当地に遷座、社号を竹内神社と改めたといいます。明治9年郷社に列格、近郷の高台稲荷社、谷山権現(総神社)、神明社、御嶽社、三峯社、天神宮、I白山社、琴平宮、水天宮などが遷座・合祀されたといいます。

「稿本千葉県誌」による竹内神社の由緒

竹内神社
同郡(舊南相馬郡)布佐町大字布佐字宮作に在り、境内二百四十坪、訶具土命を祀る。社傳に云ふ、文禄二年六月之を創建すと、明治九年一月郷社に列せられる。社地高燥にして石階数十級あり、北方利根川に臨み風景殊に美なり、末社一座あり。明治三十九年幣饌料供進指定。(「稿本千葉県誌」より)

「我孫子市史」による竹内神社の由緒

創始は承平年中(九三一~八)といい、平将門の乱が平定した天慶三年(九四〇)に武内大明神を奉斎したと伝える。
沿革の詳細は、古記録の類が安政六年(一八五九)の名主方の火災で失われたために不明であるが、別に「由来記」一巻がある。それは文化三年(一八〇六)に記されたもので、「伝聞、市政」の奥書と別当西光山勝蔵院良天代及び名主等の連署がある。巻頭には、垣山女存、罔象女尊(文間大明神両社)、句々廼知命(布川大明神)、軻遇槌命 (布佐大明神)、金山彦命(布瀬大明神)の相馬五行の社をあげ、ついで、武内大明神勧請のこと、森田左右衛門にかかわる白蛇出現の伝承及び神託によって武内明神を竹内と改めて六月十五日を祭礼の日と定めたこと、その日の神供は小麦のこわ飯に韮の鯖生酸と竹の子を献ずること、享保二十一年(一七三六)に正一位竹内大明神の称号を許されたこと、安永年中(一七七二~八一)の社殿修営のときに承平の年号と大工摂津国住人の記銘のある旧材を発見したこと、また、別当は勝蔵院で、本地は観世音菩薩であること、延喜式内社である相馬蛟蝄神社の神官が祭礼に奉仕したこと、さらに、地領は寛永七年(一六三〇)の土井大炊頭検地のとき壱反六畝廿歩が除地となったことなどが記されていて、由緒来歴が分る。
森田左右衛門にかかわる自蛇出現の伝承というのは、左右衛門(多右衛と記すものもある)が宮作台の畑で麦の刈りとりをしていたところ、にわかに雷雨となったため、刈りとった麦を積みあげておいて帰り、翌日行ってみると、一夜にして竹の子が生え、白蛇がとぐろを巻いていて、とり入れができない。これは、ただごとではないとて、行者が愛宕神社に祈ったところ、「武内神社を此の地に移せ」との神託があって、さっそく遷座し、社名も竹内神社と改めたというのである。
愛宕神社は竹内神社の元宮といい伝えられており、「武内神社は此の地に移せ」というのは、現在の竹内神社の立場から現社地の宮作台を此の地といったと解されよう。
この異変のあった年代については、「由来記」に明記されていないが、社伝では、文禄二年(一五九二)癸巳六月とされている。ついでながら、『相馬霊場案内』には「竹内神社宮作と称する処に鎮座してある、祭神天迦具土命にして、文禄二年の創建にかゝりしものであるといふ、毎年例祭九月十四、五、六日の三日間を以て、之を行ひ、郷社なるの故を以て、県より神饌幣帛料の献進がある」と記されている。
文久元年(一八六一)奉納の絵馬に描かれた当社の景観には、田の中に参道が通じ、石段を登った岡の上に社殿がみえている。それは、近年の土地造成による変化は別として、今も同じである。かくして、当社は布佐一円の鎮守として崇敬され、さかんな祭礼が年々執行されてきた。
なお、当社は、安永四年(一七七五)に相馬霊場第二十一番阿波大龍寺写しとなり、本尊は竹内明神とされていた。
しかし、明治初年の神仏分離によって、霊場を勝蔵院に移すこととなり、大正初年にそれが実現した。
明治の「神社明細帳」には「郷社、社殿間数間口六間四尺奥行五間五寸」と記されている。この建物は、文久元年(一八六一)、明治十二年及び国二十二年の参詣絵馬によって、おぼろげながら面影をしのぶことができる。それが昭和八年に改築され、さらに五十四年に修築されたのが現社殿で、本殿と拝殿を幣殿で結ぶ権現造形式となっている。
本殿は、流造、銅板葺で、棟に千木と勝男木を置く。
拝殿は、入母屋造、瓦葺で、廻縁をめぐらし、向拝がある。さらに、向拝に向って右側に入母屋の小屋根の下屋がついている。これは、拝殿の一部をひろげて社務所に宛てた部分である。
鳥居は、石造明神鳥居で「奉造立鳥居講中当村氏子中」とあり、文政十年(一八二七)に造建された。
当社には、随身像の残欠が保存されているが、その胎内に「文政八酉年(一八二五)十二月吉日、大仏師押戸杉山林哲、五十六才」の墨書がある。江戸時代以来の旧社殿に配されていたものであろう。なお、鼻の欠けた天狗面もあり、その面裏に「天保乙未(一八三五)四月大吉祥日、細工人杉山林哲」と墨書されている。当社の旧神輿は享保二十一年(一七三六)に調達されたといわれ、さかんな神輿の巡行が行われてきた。その先導役の猿田彦の仮面の旧物である。
当社には高台稲荷社、谷山権現(総神社)、神明社、御嶽社、三峯社、天神宮、I白山社、琴平宮、水天宮などがつぎつぎに合祀された。それらのうち、社殿数棟が境内にある。
御嶽神社社殿は、大正五年の再建で、千木と勝男木をあげた切妻造の本殿と切妻造向拝付の拝殿が相の間で結ばれている。高台稲荷社は布佐字高台旧在の稲荷社を明治四十四年に遷宮したもので、慶応三年(一八六七)在銘の石造明神鳥居や安政四年(一八五七)在銘の石造燈籠及び石造の狐などもここに移されている。社殿は、昭和五十四年の修築で、寄棟造、瓦葺、向拝は庇屋根の簡略な造作である。天神宮は、流造、鉄板葺の小形社で、前の半分に木階がかかり、その奥が扉付の身舎となっている。神明神社も、流造、鉄板葺の小形の祠で、木階を登った奥が身舎となっている。この杜は、昭和五十九年に中町旧在の同社を移転再建したもので、旧社は元禄九年(一六九六)鎮座のものであるとの由緒が銘板に記されている。(「我孫子市史」より)


竹内神社の周辺図


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参考資料
  • 我孫子市史
  • 稿本千葉県誌