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一行院|文京区千石にある浄土宗寺院

一行院の概要

浄土宗寺院の一行院は、天暁山と号します。一行院は、秋元三太夫が開基となり、蓮社譽春貞上人春貞合掌大和尚(天和元年1681寂)が開山、徳本行者が文化年間(1804-1818)中興したといいます。

一行院
一行院の概要
山号 天暁山
院号 一行院
寺号 -
住所 文京区千石1-14-11
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 -



一行院の縁起

一行院は、秋元三太夫が開基となり、蓮社譽春貞上人春貞合掌大和尚(天和元年1681寂)が開山、徳本行者が文化年間(1804-1818)中興したといいます。

東京名所図会による一行院の縁起

一行院
一行院は原町百三十九番地にあり、天暁山と號す、浄土宗、知恩院末なり、林町明化小学校の東に隣り、寺門南に面す、傍に門番所あり、門内正面は玄關庫裡、左に本堂あり、墓地は本堂の右(三十九番地)及其左(三十七番地)にあり、
新編江戸志に云、開山然蓮社譽春上人春貞合掌大和尚、天和元年三月廿八日寂。
正観音慈覺大師作、辨財天社弘法大師作、稲荷社安置
小石川志料に云、境内千二百坪、案に古絵図に當寺の處を無量院と書せり、住僧に問ひしに知らず、其所蔵寛文十年の記録、後の如くなれば、當寺を草創せしも無量院隠居所のためなるべし、享保年中火災に罹りし故、記録を失へりと云、寛文十年記左に録す。
寛文十年舊記某所蔵
一、四十五年年貢地、無量院隠居、原
表三十間、裏四十間、浄土宗本譽
此の古文書、無量院隠居、原とあり、原町の濫觴なり。
文化年間、釋徳本、當寺を再營す。之を中興開山となす。
徳本、俗姓田伏氏、畠山重忠の裔にして、紀州日高郡志賀谷久志村の人、寶暦八年六月二十二日を以て生る、資性質朴、状貌雄偉、道徳の譽高し、文化十四年三縁山典海大僧正数々尺讀を修めて、東國の化導を懇請す、是に依りて錫を飛ばして關東に下る、僧正随喜して一行院を營興し、此に住して化を揚げしむ、公侯士民群衆歸仰す、紀州老侯最も深く之れに歸依し、方今間口八間奥行十六間の本堂は、當時の寄進なりといへり、文政元年十月六日寂、世壽六十一、法蝋若干、全身を本院に葬り、塔を其上に樹つ、石造玉垣二重、献燈(文政二年)一對、塔に「徳本行者塔」とあり。(東京名所図会より)

「小石川區史」による一行院の縁起

一行院
天暁山満徳寺一行院。浄土宗鎮西派、総本山知恩院本山増上寺末、本尊阿彌陀如来。當寺の開創は寛永三年で、開山は本譽春貞上人(天和元年三月廿八日寂)、開基は秋元三太夫である。後堂宇が荒廢して殆ど廢寺の状態になつたが、文化年中、名僧徳本上人が幕府の請によつて關西より下江し、當院を浄教宣布の道場となしてから大いに榮え、爾来引續いて今日に至つたので、徳本上人を中興の開山と仰いでゐる。尚ほ寺内にある上人の墓は府の指定史蹟となつてゐる。文政頃には境内千二百坪あり、又境内に應永、延徳の年號を記した古碑がある。それについては、『府内備考』に『古碑法名道法、應永十九年十月廿六日、同法名道名禪門、延徳四年閏子七月廿一日。右二枚は千年當所一ツ橋様御屋敷より掘出し候を當寺へ寄附』とあり、又『改撰江戸志』には『延徳四年の古碑、或は太田道灌の弟を圖書助資常と云、此の人の碑なるべしと、或は戸次伯耆守源鑑蓮、後道雪といふ、此の人ならん』とあるが、何れにも正確な證據はない。現本堂は天保十二年の再建で、幽邃な境内には高僧徳本行者の遺風を留めてゐる。(「小石川區史」より)


一行院の周辺図



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