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光源寺|文京区向丘にある浄土宗寺院、駒込大観音

光源寺の概要

浄土宗寺院の光源寺は、天昌山松翁院と号します。遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、天正17年(1589年)神田四軒町に創建、慶安元年(1648)当地へ移転したといいます。丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、大和国長谷寺の観音の写しといい、江戸名所図会にも掲載されている著名な観音像でしたが、太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。東京三十三観音霊場27番札所です。

光源寺
光源寺の概要
山号 天昌山
院号 松翁院
寺号 光源寺
住所 文京区向丘2-38-22
本尊 木造阿弥陀如来像
宗派 浄土宗
葬儀・墓地 -
備考 駒込大観音、上野王子駒込辺三十三ヶ所観音霊場8番、東京三十三観音霊場27番



光源寺の縁起

光源寺は、遂蓮社本誉道公が開山、仙石権兵衛後任越前守(法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士)が開基となり、天正17年(1589年)神田四軒町に創建、慶安元年(1648)当地へ移転したといいます。丸屋宗閑俗名吉兵衛の寄進により建立された観音堂の駒込大観音は、大和国長谷寺の観音の写しといい、江戸名所図会にも掲載されている著名な観音像でしたが、太平洋戦争で被災、平成5年に再建されました。

「本郷區史」による光源寺の縁起

光源寺
駒込蓬莱町に在り深川本誓寺末、天昌山松翁院と號す、天正十七年神田四軒寺町に起立、慶長元年現地に移る。開基は仙谷権兵衛秀久で法名圓覺院、松翁院は秀久の孫越前守政俊であるが、共に本寺に墓所はない。境内観音堂に丈六の観音像あり、駒込の大観音として世に知らる。貞享の頃江戸の町人丸吉兵衛の建立する所(江戸砂子)で、吉兵衛は元大坂町に住して丸屋宋閑と云ひ(文政寺社書上)本姓は橋本氏であつた(明治十八年書上)。朝倉無聲氏武江年表の註には吉兵衛は鰹節問屋で當時の歌に「沖に見ゆるは丸屋の船よ」と云はれし者であるといふ。(「本郷區史」より)

御府内寺社備考による光源寺の縁起

深川本誓寺末 駒込四軒寺町
天昌山松翁院光源寺、境内拝領地1755坪
当寺ハ天正17巳丑年神田四軒町ニ於テ起立慶安元年駒込ニ転地仕仰付引移申候。
開山遂蓮社本誉道公遷化之年月相知不申候。
開基仙石権兵衛後任越前守、法名円覚院殿前越前太守空誉道樹大居士慶長19寅年5月6日卒。松翁院殿謙誉道休大居士延宝2寅年5月6日卒。是仙石家三代目ニテ当寺中興ナラント云。但円覚院松翁院共廟無之位牌斗有候。
本堂、間口7間奥行6間9尺。本尊弥陀如来、木佛像丈2尺2寸5分。観音勢至二菩薩、各丈1尺6寸。
円光善導両祖神、各丈1尺6寸。舎利塔1基。
観音堂、間口6間奥行6間半。本尊十一面観音、木佛像丈2尺。右大和国初瀬寺の写にして木像長2尺にして元禄9年元大坂町丸屋宗閑俗名吉兵衛と申者造立仕(中略)。閻魔王、脱衣老婆、地蔵、千手観音、薬師如来。鰐口。
鎮守社、天照大神宮、稲荷大明神、相殿十一面観音本地佛。
六地蔵尊石像。
庚申塔。
宝篋印塔。
阿弥陀如来石像。千手観音石像丸屋宗閑観音堂建立之供養塔。
地蔵堂。地蔵尊唐銅像長2尺3寸。
鐘楼堂、9尺四方。大鐘、指渡2尺5寸。(御府内寺社備考より)

東京名所図会による光源寺の縁起

光源寺
光源寺は駒込蓬莱町六十二番地にあり、天昌山松翁院と號す、浄土宗深川本誓寺末なり、仙石権兵衛(越後後守)法名圓覺院(慶長十九年卒)の開基にして、僧本譽を開山とす、天正十七年の創建に係り、初め馬喰町にあり、正徳四年此の地に移る。寺門南に面す、左右生垣にて「天昌山」の額あり。門内左に撞鐘堂あり、正面本堂に通ず、「光源精舎」とあり、境内老縦數株あり、矗々として天に沖せり、又松と櫻の木あり、東に観音堂並建てり。
大観音堂。本堂に並ぶ、別に門あり、前記天昌山扁額門の東に位し、道並の生垣に沿ふて設けらる、「大観音」藍字の額、華頂王宮侍講賜紫沙門大雲書とあり、門内右に水屋あり、其の右墓地に接して庚申塔一基、地蔵尊十二躯、石露佛等あり、境内廣くして光源寺本堂と共通す、観音堂、土蔵造二階建にして扉左右に開く、向拝あり、正面に香爐を置く、堂内聯を掲ぐ、右「續稱寶號己投種於蓮胎」、左「一發菩提即標名於金地」傍に賜紫沙門明道書と細書し、左に閻魔王、右に脱衣婆の像を置き、正面に銅鋼を張り、裡に燦爛なる金色の十一面観音立像を安置す。所謂大観音、一丈六尺と稱し、其御首や二階の窓戸より拝せらる、尚四壁に金色の千體佛を勧請す、即ち西国坂東秩父の百番の観世音菩薩並に七観音薬師佛千手観世音、阿弥陀佛、地蔵菩薩、瓣財天女等の諸尊像なり。
江戸砂子(三)に云、大観音、長谷のうつし、立像一丈六尺なり、観音千體佛、常念佛、貞享のころ江府の町人九吉兵衛といふ者建立す。
江戸名所図會にも、大観音、千駄木七軒寺町光源寺といへる浄宗の寺内にあり、和州長谷寺の寫にして、十一面観音の立像(長一丈六尺)なり、又同堂内に千體の観音を安す、貞享年中江府の上人九吉兵衛なるもの是を建立す。
大観音と稱して世に知らる、毎年七月九日十日の両日(世俗四萬六千日といふ)は参詣群集し、境内は見世物、賣物店にて充たされ、其賑ひ延て近傍數町に及べり。又平日癩病患者の願懸する者多し。(東京名所図会より)

史跡さんぽ実施報告書による光源寺の縁起

浄土宗の寺院で天正17年(1589)本誉道公上人により、神田四軒町に創建された。その後、江戸城拡張に伴い、慶安元年(1648)駒込の現在地に移転した。
堂字には、元禄10年(1697)造立の十一面観世音立像が、安置されていた。木彫で高さは二丈六尺(約8m)あり、堂字の窓から顔が拝観できた。7月9日、10日両日は市もたち参詣者が多く、大変な賑わいであった。
しかし、昭和20年(1945)5月25日夜半の東京大空襲によって、全焼の災いにあい、観世音立像も堂字も焼失してしまった。
平成5年(1993)関係者の思いが実り、再興された。その観音像は高さ6mもあり、長谷寺の十一面観音と同じく、錫杖を右手に持ち、金箔、金粉の極彩色に彩られた平成の観音像である。墓城には甲宵師、鐸士の明珍派の初代、宗介と累代の墓がある。
宗介は京都九条に住み、その技術のすぐれていることに感嘆した近衛天皇(1141-1155在位)は明珍の号を与えた。それ以来、明珍の姓を一族が名乗るようになった。(史跡さんぽ実施報告書より)

駒込大観音

「駒込大観音」は大和国(奈良県)長谷寺本尊の十一面漢音を模して元禄10年(1697)に建立されました。像の高さは2丈6尺(約8m)あり、長谷寺の観音様と同様に地蔵菩薩の持物である錫杖を持ち、岩の上に立つという独特の様式で、お地蔵さまの慈悲をあわせもつ観音さまとして、古来人々の信仰を集めてまいりました。「江戸名所図会」の挿絵としても掲載されている駒込大観音は、7月9日と10日にお参りすると46000日分のご利益がある「四万六千日」の縁日、酸漿市として今日にいたるまで賑わいをみせております。
この駒込大観音は昭和20年(1945)5月25日の東京大空襲により堂宇もろとも灰燼と帰し、そのお姿を拝むことができなくなってしまいました。爾来私どもはその復興に努めてまいりましたが、ようやく念願がかない再興が相成りました。
再興された十一面観音は長谷寺式同様に錫杖を右手に持つ像高6m余の立像で仏像彫刻家・西山如氏により父・如拙氏の監修のもとで木曽檜を用いた寄木造りで彫刻され、さらに東京都伝統工芸士の藤原茂夫氏により漆塗りと金箔・金粉を施して仕上げました。また、像の後方壁面には書家・柳田泰雲氏揮毫の「妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈」が陶板に加工して飾られ、堂内を荘厳しております。
観音堂は楜沢成明氏の設計で右手の阿弥陀如来と千手観音の石像は、駒込大観音を建立した江戸の町人丸屋吉兵衛の供養塔です。また、境内に点在設置してある石は創建時の観音像の台座として用いられていたものです。
観音さまは「観世音菩薩」あるいは「観自在菩薩」と呼ばれ、駒込大観音は、十一面観音の名のとおり時に応じたさまざまなお顔で私たちに接し、苦しみ、悩み、悲しみ、怒り、願い、喜びなどをもつあらゆる境遇の人に、宇宙の根源的な生命力を自覚させてくださる菩薩です。
お参りされるときは「南無大慈大悲観世音菩薩」または「オンマカキャロニキャンソワカ」と唱え、観音さまを鑑として自己を見つめなおされるようおすすめいたします。 ここに、駒込大観音を再興するにあたって浄財を寄進してくださった方々のお名前を記しておきます。(境内掲示より)


光源寺所蔵の文化財

  • 明珍本家の墓

明珍本家の墓

平安時代、京都九条の甲冑師・鐔工であった宗介は、その技術のすぐれていることに感をうたれた近衛天皇(1141-1155在位)から「明珍」の号を授かったと伝えられている。以来、その一族は明珍姓を名乗るようになり、代々各地で甲冑・鐔作りを生業としていた。
光源寺本堂に向って右手奥には、江戸寛政期(1789-1801年)に幕府お抱えの甲冑師となった明珍本家の墓所があり、54世宗介、55世宗正、56世宗政、57世宗益、58世宗妙、59世宗邦、宗家、宗胤、60世宗冶などが埋葬されている。(文京区教育委員会掲示より)


光源寺の周辺図



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